├─≠ョ─ヵラス 山犬モロ├─≠ョ─ヵラス 美輪 明宏(みわ あきひろ、1935年5月15日 - )は、日本のシンガーソングライター、俳優、演出家、タレント。長崎県長崎市出身。本名:丸山 明宏、幼名 臣吾(しんご)。海星中学を経て国立音楽大学附属高校中退。愛称はマルさん、美輪さん。自らの個人事務所である、オフィスミワ所属。
1971年までは本名の丸山 明宏名義で活動していた。兄と姉と弟のいる五人兄弟の次男。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 長崎時代
1.2 歌手 丸山明宏
1.3 俳優 丸山明宏
1.4 美輪明宏への改名と体調の悪化
1.5 黒蜥蜴再演
2 人物
2.1 交友関係
3 その他
4 ディスコグラフィー
4.1 シングル
4.2 オリジナルアルバム
4.3 編集アルバム
4.4 企画アルバム
4.5 ライブアルバム
4.6 ボックス・セット
4.7 映像作品
5 主な出演作
5.1 舞台
5.2 映画
5.3 テレビ
5.3.1 ドラマ
5.3.2 バラエティ他
5.4 ラジオ
5.5 CM
5.6 携帯公式サイト
6 著書
6.1 単著
6.2 共著
7 外部リンク
8 脚注
経歴 [編集]
長崎時代 [編集]
美輪の実家は長崎市内の「丸山遊郭」と呼ばれた遊郭街でカフェを経営していた、しかし戦時体制の中で美輪の父親は“敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ”と言われてカフェを閉店せざるを得なくなり、金融業に転業。10歳だった美輪は長崎への原爆投下時、長崎市本石灰町(爆心地から約4キロ)の自宅におり無事だったが[1]、その後、近くの防空壕で待機した後に爆心地近くにあった生母の実家へ祖父母を1人で探しに行き惨状を目の当たりにする。
原爆に因って父の貸付先が相次いで破産・他界した為、美輪一家は貧乏生活を余儀なくされた。その前に美輪の父の後妻が他界しており、父の後々妻も失踪するなどの不幸に見舞われ、美輪は幼い異母弟達と辛い日々を送る事となった。
終戦後に観た映画に出演していた加賀美一郎のボーイソプラノに衝撃を受け、程なくして声楽とピアノのレッスンを受け始める。海星中学では同期に西岡武夫がいた。エンリコ・カルーソーやベニャミーノ・ジーリの様なオペラ歌手、コンサート歌手を夢見て、1951年春に高校進学のため15歳で上京する。
歌手 丸山明宏 [編集]
上京し高校へ進学、しかし家業が倒産し中退、翌1952年、17歳になった美輪は新宿駅で寝泊りしていたが銀座のシャンソン喫茶『銀巴里』との専属契約が叶い歌手デビュー。国籍・年齢・性別不詳として売り出す。 次第に人気を博し、三島由紀夫、吉行淳之介、野坂昭如、大江健三郎、中原淳一、遠藤周作、寺山修司、なかにし礼らの支持を得る。
1957年、 フランスのシャンソン『メケ・メケ』を日本語でカバーし、大ヒットとなる。元禄時代の小姓の衣装を洋装に取り入れ、レース地のワイシャツなどを身に纏いユニセックスファッション[2]と、「天上界の美」と三島由紀夫が絶賛した美貌で、マスコミから「神武以来の美少年」、「シスターボーイ」と評され一世を風靡する。同じ1957年製作の映画『暖流』(増村保造監督。大映)に歌手で出演しており、カラー映像で当時の美輪の流麗な姿を見る事ができる。
『メケメケ』以来のブームは1年程で沈静化。その間に雑誌を通じて同性愛者である事を公表した[要出典]事や、旧来のシャンソンのイメージ(美輪曰く 蝶よ花よ、星よ月よに終始する「おシャンソン」)に無い、自ら訳した生々しい内容のシャンソンを歌った事に対する反発もあり人気は急落する。そんな逆風の中、作詞作曲活動を開始。今もって美輪の主要なレパートリーとなっている『うす紫』、『金色の星』、『ふるさとの空の下』等はこの頃、既に作詞作曲していた。しかし、歌い手が自ら作詞作曲した歌を唄う事には当時の聴衆からも歌謡界からも理解を得られず、レコード化すらできなかった。美輪曰く「人様の情けに生かされた」不遇の時代が続くと共に洗面器に多量の吐血をするなど原爆の後遺症に悩まされ始める。
しかし1963年には、中村八大らの助力により日本初の全作品自らの作品によるリサイタルを開く。翌1964年には『ヨイトマケの唄』を初めてステージで披露する。1966年、前年の内にレコード化されたヨイトマケの唄(『ふるさとの空の下』とのカップリング)が注目され人気が再燃。
俳優 丸山明宏 [編集]
1967年に、寺山修司の演劇実験室・劇団天井桟敷旗揚げ公演で、寺山が美輪の為に書き下ろした『青森県のせむし男』や『毛皮のマリー』に主演。
1968年、自伝『紫の履歴書』を発表。(初版は大光社より)
『黒蜥蜴』以降も『椿姫』、『マタ・ハリ』、ジャン・コクトー原作『双頭の鷲』(王妃の演技に対し、日本初の女王役者誕生と賞賛された[要出典])といった舞台や『黒薔薇の館』、『雪之丞変化』等の映画・テレビドラマでの主演を続ける。また1970年からはTBSラジオ「ラジオ身の上相談」を担当し、芸能人が担当する人生相談としては異例の25年という長期に渡り続いた。
美輪明宏への改名と体調の悪化 [編集]
1971年、読経中に『美輪』の字が浮かび、神様が下さった名前だと思い、姓名判断を調べると完全無欠な画数だった為丸山明宏から美輪明宏に改名[3]。「女優引退宣言」(女性役を演じなくなるので、当時こう表現された)を行い、歌手活動に専念する。銀巴里やジァンジァンでのライヴや全国各地でのリサイタルを精力的に行い、『白呪』(1975年)等のアルバムも多数発表した。また男性役では映画(1977年 井上ひさし原作『日本人のへそ』)やドラマ(1976年『さくらの唄』)に出演している。
1978年『枯葉の寝床』(原作 森茉莉)で舞台活動を再開するが、この頃より慢性気管支炎になり、年々悪化。俳優、歌手活動に支障をきたしはじめ、トークショー等のテレビ出演を控えるようになる。しかし、その後も演劇では1979年にエディット・ピアフの生涯を描いた、自作自演となる『愛の讃歌』を初演したり、1980年の「メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行」では夜の女王役を好演している。
1983年には『毛皮のマリー』や『青森県のせむし男』を再演。更に1984年には『双頭の鷲』を再演するが、体調は悪化する一方で1985年の『大典礼』(原作・演出 フェルナンド・アラバール)を最後に1993年の『黒蜥蜴』再演まで再び舞台から降りる事となった。病状は深刻で、激しい咳のため肋骨が折れたこともあったという[要出典]。
なお、歌手としては1984年にパリで、1987年にはパリ、マドリード、シュトゥットガルトでリサイタルを行い『ル・モンド』、『リベラシオン』を始め多数の新聞・雑誌に紹介・絶賛された。また1986年からは現在も続くPARCO劇場でのロングリサイタルが始まり、それ以外にも全国各地でのリサイタル公演を行い、舞台に立てなくなった後も切れ目なく活動を続けた。
1990年、東京芸術劇場のこけら落し公演『マリー・ローランサン』を演出。この時既に『黒蜥蜴』再演の企画は持ち上がっていたが、体調面から断念している。またこの年、40年近く唄い続けて来た銀巴里が閉店となり、美輪は最後の日の「さよならコンサート」で自ら作詞作曲した『いとしの銀巴里』を涙ながらに歌い上げた。この模様を各メディアは挙って大きく報じ、また翌1991年の映画『黒蜥蜴』のニューヨークでのヒットなども重なり、この頃から美輪が言う「メケメケ、よいとまけ、黒蜥蜴に続く四回目のブーム」の時期が訪れ、テレビやCM等への出演が増えた。
黒蜥蜴再演 [編集]
1993年、1985年の『大典礼』以来舞台に立てない程に悪化していた持病が前年に奇跡的に完治した事で、24年ぶりに待望の『黒蜥蜴』を再演[4]。前売りのチケットは発売日当日に完売するなど世間の注目を集めた。またこの再演時には自ら主演、演出、美術、衣装、選曲を担当。以降上演される舞台は1994年、1996年の『毛皮のマリー』以外、全て美輪自身の演出となった。美術・衣装・選曲も務めることが多く、脚本・振り付けを担当した作品(美輪明宏版「椿姫」)や原作まで担当した作品(「愛の讃歌」)もある。
1994年には『毛皮のマリー』を海外から演出、照明、音楽など当代一流のスタッフを招き再演。この形式は1996年の再演時にも引き継がれるが、美輪曰く「演出があんまりひどい時は私が手直しした」とのことで、結局2001年の再演では自ら演出する事となる。キャストも美少女を含め全員男性で演じる本来の形式に戻された。
1996年、三島由紀夫が30年来熱望していた美輪演出・主演による『近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町』を上演。三島を歓喜させた当初のプラン通り、サルバドール・ダリと尾形光琳を取り入れた舞台デザイン(葵上)や99歳の老婆から19歳の美女への早替り(卒塔婆小町)など趣向を凝らした舞台となる。また、その年の秋には『愛の讃歌』を17年ぶりに再演した。
1997年、13年ぶりの『双頭の鷲』再演で読売演劇大賞優秀賞を受賞。 映画『もののけ姫』では山犬神、モロの君の役で声優を務め、東京スポーツ映画大賞助演男優賞を受賞する。
1998年には再び『葵上・卒塔婆小町』を上演、秋にはデュマ・フィス原作「美輪明宏版 椿姫」を30年ぶりに上演し、いずれも好評を博す。この年2本の芝居を上演したのを最後に翌年の『双頭の鷲』以降、舞台作品は年1本の上演ペースとなる。一方、美輪が舞台活動を再開した1993年以降、芝居のスケジュールとの調整が必要となり公演が無い年(1996、1997年)もあったPARCO劇場でのロングリサイタルは1998年以降「音楽会」と名を改め、毎年行われる様になる。以来、美輪のステージは春先の芝居、秋の音楽会で定着し、現在に至っている。
2000年、銀巴里閉店後、唯一のライヴ活動の場となっていた渋谷ジァン・ジァンが閉場となり、2000年3月29日が美輪のジァンジァンにおけるラストライヴとなった(閉場は2000年4月25日)。そしてエディット・ピアフの生涯を描いた「愛の讃歌」を上演。またこの年、アルバム『白呪』が再発売される。桑田佳祐がフジテレビ系『桑田佳祐の音楽寅さん~MUSIC TIGER~』内で『ヨイトマケの唄』を歌ったのもこの年である。[5]
2002年に芸能生活50周年を迎える。この年には三島由紀夫の三十三回忌に際して「近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町」を再演している。(相手役は宅麻伸)
2005年にはテレビ番組『オーラの泉』が始まり、「愛の伝道師」として出演している。
2006年、「愛の讃歌」を再演。
2007年、美輪明宏携帯サイト「美輪明宏 麗人だより」をスタート。
2010年、「近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町」を再演。(相手役は木村彰吾、岩田知幸)
人物 [編集]
中性的な外見から『ウルトラQ』の第16話の準備稿ではセミ人間のイメージキャストとして丸山 明宏(美輪の本名)が挙げられている。
かつて『さんまのからくりTV』に出演した際には珍答・奇答を連発し、正解はなかったが "ナイスなボケ" に対して付与される「ナイスボケ」を4つ獲得し優勝した事もあった。
『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』に出演した際には「仮面ライダーとウルトラマンの共演作があった」というトリビアを「こんな馬鹿馬鹿しいの大好き」と笑い、満「へぇ」を打った。
入浴時には肌のために石鹸を使用せず伯方の塩で身体を洗う[要出典]。『トリビアの泉』で「伯方の塩は国産ではない」というトリビアを知ると、がっかりしたものの「海は世界でつながっているものね」と返した。
三島由紀夫が自殺した翌年の1971年(自身36歳)頃には一気に白髪になったと語っている[要出典]。長らく髪の毛を黒く染めていたが、最近は風水に基づき黄色く染めロング・ヘアーにしている。
好きな食べ物は?との問いに、「人の悩みを食べて、涙を飲んで生きてるの」と答えた[6]。
2005年4月、『薔薇族』復刊号で伊藤文學編集長との対談に応じた。
2006年8月19日、NHKのスポーツ番組にゲスト出演した際、高校野球の決勝戦(駒大苫小牧対早稲田実業)について、アナウンサーからどちらが勝つと思うかと質問されると、どちらも頑張っているので引き分けになってほしいと答えた。翌日の決勝戦では延長15回1-1の引き分けになり、翌日再試合となった。
冗談を言う事が好きで、『SMAP×SMAP』では、中居正広の前世がピカソ、「あんな絵が描けるのはピカソしかいない」と言った(中居が生まれたころピカソはまだ生きている)。また、『中居正広の金曜日のスマたちへ』の特番にゲスト出演した際には中居正広の前世を「あなたは前世でもとても有名だったのよ。きつねとたぬきのハーフで名前は『どん兵衛』という名前だったのよ」と言った。
日本音響研究所の鈴木松美によると、美輪の声には周波数ゆらぎと振幅ゆらぎが含まれているという。
交友関係 [編集]
銀巴里時代から現在まで、数多くの作家(三島由紀夫、江戸川乱歩、澁澤龍彦、吉行淳之介、瀬戸内寂聴、なかにし礼、大江健三郎など)や画家(東郷青児、中原淳一、横尾忠則など)、演劇人(十七代目中村勘三郎、十八代目中村勘三郎、杉村春子、初代水谷八重子、二代目水谷八重子、赤木圭一郎、寺山修司、蜷川幸雄、五代目坂東玉三郎、渡辺えりなど)、作曲家(池辺晋一郎など)、歌手(フレディ・マーキュリー、吉井和哉など)と交流。
スピリチュアルカウンセラー江原啓之に信頼を置き、霊能者木村藤子とも親交関係を築いている[要出典]。
(信頼するあまりオーラの泉に出演する事で江原の霊能者としての知名度を高める結果となり、江原の仕事の片棒を担いでいるという批判を受ける事も良くある)
奥山和由の監督作品『RAMPO』を絶賛しており、奥山が松竹を追放された後に設立した会社「チームオクヤマ」の名付け親になるなど応援し続けている。
華道家の假屋崎省吾は美輪明宏のおっかけ(本人公認)を自認しており、美輪から「美をつむぎ出す手を持つ人」と評された事を誇りにしている。
交友関係のあった作曲家、古賀政男の最後の門下生であった佳山明生の名付け親でもある(本名の丸山明宏より苗字と名前のそれぞれ一文字ずつとったもの)。
その他 [編集]
講談社発行の月刊誌「現代」で、2007年9月号から2008年1月号までノンフィクション作家の豊田正義が美輪明宏の評伝を連載した。タイトルは『オーラの素顔』。美輪の少年時代から始まり、赤木圭一郎との哀恋、三島由紀夫や寺山修司との芸術的交流、江原啓之との出会い、『オーラの泉』の裏話まで、美輪の人生が精緻な取材で描かれており、単行本化されている。
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