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【2024/11/28 08:42 】 |
松本哲也
松本 哲也(まつもと てつや、1984年7月3日 - )は、読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(外野手)。
目次 [非表示]
1 経歴
2 プレースタイル
2.1 打撃
2.2 守備
3 詳細情報
3.1 年度別打撃成績
3.2 背番号
3.3 タイトル・表彰
3.4 個人記録
3.5 登場曲
4 CM
5 脚注
6 関連項目
経歴 [編集]

叔父松本純也が元ラグビー日本代表(スクラムハーフ)、父親が社会人ラグビーの選手だった影響で、中学時代は野球部とラグビー部を掛け持ちしていた。しかし体の小ささに悩んだ結果、ラグビーの道を諦め高校から本格的に野球を始める。
山梨学院大学附属高等学校時代には1年夏に甲子園に出場。2年先輩に玉山健太、1年先輩に大島崇行(共に広島東洋カープ)がいた。
東都の専修大学へ進学し、4年時には主将を務め、東都大学リーグで9季ぶりの1部復帰に貢献した。同期に長谷川勇也(福岡ソフトバンクホークス)がいた。2006年、育成選手として巨人に入団。
2007年、春季キャンプ中の紅白戦で活躍し、原辰徳監督に「走攻守で存在感があった。収穫だった」と言わしめた。紅白戦や練習試合での活躍が首脳陣に認められ、巨人の育成選手から初めて支配下登録された選手となった。1年目は1軍出場は無く、2軍では79試合に出場し、打率は.285、4盗塁に対し6盗塁死、三塁打は1本と俊足を発揮出来なかった。
2008年、5月28日の対楽天戦で一軍デビューを果たす。5月31日のソフトバンク戦でプロ初先発したが、プロ初打席で三ゴロを放ち、一塁ベースを駆け抜けた際に右くるぶしをはく離骨折。実戦復帰は2ヵ月後になり、その後一軍昇格の機会はなかった。二軍では打率.276、チームトップの10盗塁を記録。
2009年、初の開幕1軍入りを果たし、4月5日の対広島戦でプロ初安打を記録。初めて2番打者で先発出場した5月6日の横浜ベイスターズ戦でトム・マストニーから三塁打を放ち、プロ初打点を記録した。この試合以降、2番・中堅手としてレギュラーに定着。当初は相手先発が左腕の際は先発を外れていたが、後半戦からは投手の左右に関係なく先発を任された。「まだプロの身体が出来ておらず、フル出場は厳しい」という原監督の判断で定期的に休養日を与えられたため、規定打席にはわずかに届かなかったが、的確なチームバッティングで強力打線のつなぎ役を務め、堅い中堅守備でも再三のピンチを救うなどチームのリーグ3連覇と7年ぶりの日本一に貢献。育成枠出身選手としては初となるゴールデングラブ賞、育成枠出身の野手初の新人王を受賞。山口鉄也に続き、2年連続で巨人の育成枠出身選手が新人王を獲得した。本塁打0本で新人王に選ばれた野手は同じ山梨県出身の久慈照嘉以来二人目である。
2010年、開幕から2番センターでスタメン出場し盗塁とヒットを量産。4割を超える打率を記録していたが、4月25日の広島戦で左ふともも裏を負傷。当初数週間での復帰を見込まれたが、実際には約2カ月を要し、7月2日の阪神戦から復帰した。長期離脱にも拘わらずオールスターゲームにファン投票で選出され、育成出身野手として初出場、同時に育成出身選手初ヒットも第2戦に記録した。しかしペナントでは離脱前の調子を取り戻せず、大きく数字を落とした。それでも打率.287 17盗塁と前年と同程度の成績は残した。盗塁死は半分以下に減らすなど走塁技術にも改善が見られた。
プレースタイル [編集]

打撃 [編集]
右手と左手を離して構える天秤打法を採用している[1]。フォームについて専修大学のGMの江崎久(現専修大学野球部監督)からは「(過去近藤和彦が採用していた)『天秤打法の真似ではないか』という声も聞くが、大学時代は普通に構えて打っていた。ギリギリで巨人に取ってもらって、必死にプロのレベルに対応しようとする中で生まれた打法でしょう」と語っている[2]。
守備 [編集]
俊足と高い守備能力を持つ外野手であり[3]、ダイビングキャッチやフェンスにぶつかりながらの捕球を積極的に試みるなど、怪我も恐れぬ積極的なプレーも見せると評価されている[3] 。
1980年代に青い稲妻と呼ばれ、同姓で俊足を武器に活躍した松本匡史(本名は松本哲)を目標とし、試合では青い手袋とリストバンドを着用している[4]。
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【2010/11/08 20:09 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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