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【2024/11/28 06:27 】 |
カカの踊り
カカ(Kaká、本名:リカルド・イゼクソン・ドス・サントス・レイチ、Ricardo Izecson Dos Santos Leite、1982年4月22日 - )はブラジル、ブラジリア出身の同国代表サッカー選手。2007年2月にはイタリア国籍も取得した[1]。 ポジションは主にミッドフィールダー(オフェンシブハーフ・トップ下)だが、セカンドトップなどフォワードのポジションもこなす。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 誕生~サンパウロFC時代
1.2 ACミラン時代
1.3 レアル・マドリード時代
1.3.1 移籍を巡る騒動
1.4 代表での実績
2 人物
3 名前について
4 エピソード
5 脚注
6 個人成績
7 代表歴
8 獲得タイトル
来歴 [編集]

誕生~サンパウロFC時代 [編集]
カカはブラジルの首都ブラジリアで生まれる。父ボスコはエンジニア、母シモーネは学校の教師として家庭を支え、カカが生まれた後すぐにクイアバに移住し、7歳の時にサンパウロへ来る。彼自身が「幼い頃からサッカー以上に好きなものはなかった」と語るように、ボールを蹴ることが何よりも楽しみだったという。 父がサンパウロFCのクラブ会員だったので、9歳でサンパウロFC(ブラジル)のクラブ会員用のチームに加入。当時から技術面では優れたものをもっていたが、他の子たちに比べて線が細く、補欠に甘んじていた。その後クラブでのトレーニングの成果でビルドアップに成功、弱点を克服した。トップチームデビューは2001年2月のボダフォゴ戦。途中出場ながら2得点を決める活躍を見せると、以降サンパウロFCのトップチームに定着する。
ACミラン時代 [編集]
2003年、850万ユーロ(約12億円)の移籍金でセリエA・ACミランへ移籍。移籍初年度、当初はチームのトップ下ポジションにいるマヌエル・ルイ・コスタ、クラレンス・セードルフ、リバウドらのバックアッパーとしての働きを期待されていたが、開幕戦から驚異的な活躍をみせ、リーグ戦2試合目にして完全にスタメンの座を確立。移籍初年度にはセリエAで30試合に出場し、チームのスクデット、UEFAスーパーカップ獲得に大きく貢献した。


ミランでのカカ(2007年)
2006-2007シーズンは、UEFAチャンピオンズリーグにて10得点を決めブラジル人としてはリバウド以来の得点王となり、ビッグイヤー獲得(UEFAチャンピオンズリーグ優勝)の原動力となった。また、FIFAクラブワールドカップ2007では1得点3アシストの大活躍を見せ、大会MVPに輝くと共に、欧州勢として初となるクラブW杯優勝、ミランとして1990年トヨタカップ以来4度目となる世界一に導いた。これらの活躍を評価され、2007年はバロンドール、FIFA年間最優秀選手賞、FIFPro年間最優秀選手賞、英誌ワールドサッカー選出世界年間最優秀選手賞(いずれも初受賞)と4つの栄誉を手にすることになった。
レアル・マドリード時代 [編集]


レアル・マドリードでのカカ(2009年)
かねてから本人のACミラン残留希望とは裏腹に、移籍の噂が絶えないカカであったが、2009年、フロレンティーノ・ペレスが会長に復帰したレアル・マドリードの最初の新加入選手として移籍金6800万ユーロ(約100億円)の7年契約で移籍。入団発表では5万人のサポーターがエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウに集まった。親善試合のトロントFC戦でレアル・マドリードでのデビューを飾り、ボルシア・ドルトムント戦で初ゴールを決めた。2009年9月23日、ビジャレアルCF戦でペナルティーキックからレアル・マドリードでの公式戦初ゴールを記録した。しかし、恥骨炎の影響もあってか、かつてのような活躍は出来ておらず[2]、goal.comからその年のリーガワースト移籍ランキングで10位に選ばれてしまった[3]。2010 FIFAワールドカップ後には半月板の手術を行い、4ヵ月程度の離脱が発表された[4]。
移籍を巡る騒動 [編集]
ACミラン時代、移籍市場では毎年のように移籍が噂され、その度に大きな話題を集めた。
ACミランとは当初2009年6月までの契約であったが、2005-2006シーズン終了後にはACミランの八百長疑惑によりクラブのセリエB降格の危機が報じられ、カカのもとにも複数のクラブから移籍のオファーが舞い込んだ。FAプレミアリーグ・チェルシーFCからは7000万ポンド(約152億6000万円)という超破格のオファーが来たが、ミラン側が首を縦に振らなかった。このとき本人も「ACミランが降格しないなら、クラブに忠誠を誓う」と発言。その後2006年7月15日にミランは降格を免れる判決を下された。当時チェルシーの監督であったジョゼ・モウリーニョからは「世界の中で自由に選手を獲得できるとしたらカカを選ぶ」と言われ、レアル・マドリードのラモン・カルデロン会長はカカの獲得を公約に掲げるなど、世界中のサッカー関係者からの高い評価を集めた。
2007年、レアル・マドリードから8000万ユーロ(約130億円)の移籍金と手取り1200万ユーロ(約20億円)のオファーがあったが、それでも移籍しなかった。また、レアル・マドリードへの移籍報道に関して、本人は「レアルは僕が欲しいなら、ベルルスコーニ会長の首を縦に振らせればいい」と言っている。
2009年1月、FAプレミアリーグのマンチェスター・シティFCがカカ獲得にサッカー界史上最高額の移籍金1億ユーロ(約120億円)以上ともいわれる移籍金をミランに提示したことによる移籍騒動が勃発。カカにも年俸1500万ユーロ(約20億円)を提示[5]し、ミランもカカの移籍を容認(実際は説得)したものの、本人は残留を希望し、同月19日、ミランに残留することが決まった[6]。また、多くのサポーターは移籍に大反対し、中にはカカの自宅周辺などに集結したサポーターもおり、カカは窓からユニホームを掲げ、笑顔で応えた。


レアル・マドリード入団発表におけるカカ(2009年6月30日)
しかし、2009年6月9日の00:00(現地時間)丁度にレアル・マドリード入団が発表された。移籍金は6800万ユーロ(約94億円)で、2001年、ジネディーヌ・ジダンが同じくレアル・マドリードに移籍したときの7696万ユーロ(約103億円)に次いで当時史上2番目の高額移籍となった[7][8]。紆余曲折の末の移籍であり、カカ本人はこの移籍について会見で「(裏口ではなく)玄関から去る」と語った[9]。また、レシフェで行われた会見では、あくまで最高の形はミランへの残留であったとしながらも、移籍は財政難に苦しむミランのことを思えばこそであり、移籍をするのであればレアル・マドリードしかないと語った[10]。
代表での実績 [編集]
2002年には2002 FIFAワールドカップのメンバーにも選ばれ、出場機会は少ないながらも優勝を経験した。
2006 FIFAワールドカップではロナウジーニョ、ロナウド、アドリアーノとともにカルテット・マジコ(「魔法の4人」)を形成し世界中で話題となった。しかしチームは機能せず、個々の選手がバラバラに活躍するのみで圧倒的な優勝候補といわれた前評判を見せられぬまま、準々決勝でフランスに敗れベスト8で敗退した。
FIFAコンフェデレーションズカップ2009では背番号10を背負い、ブラジルの優勝に貢献すると共に大会最優秀選手(ゴールデンボール)に輝いた。
2010 FIFAワールドカップでは、前回大会のカルテット・マジコから唯一代表に選出された。しかし、結果は前回大会と同じベスト8でオランダ代表に逆転負けを喫し、カカは大会アシスト王となるも無得点に終わった。
人物 [編集]



カカとルーラ。手にはI BELONG TO JESUSと書かれたシャツを持っている
ブラジル人サッカー選手に多い貧困層出身ではなく、どちらかというと中流階級の育ちであるが、その事を鼻にかけたりせず誰とでも気さくに付き合うようで人間的にも評価が高くチームメイトの信頼も厚い。彼自身、白人であるが人種の坩堝であるブラジル育ちということもあり黒人や黄色人種への人種差別には強固に反対し発言もしている。しかし、2008-2009シーズンはクラブにおいて監督の戦術などを批判することもあった[11]。
プロテスタントのクリスチャンであり、特に敬虔なクリスチャンとして知られている。愛読書は聖書、好きな音楽はゴスペル、座右の銘は聖書の言葉の「神に忠実なれ」。ゴールを決めた後に「私はイエスのもの」という意味の「I BELONG TO JESUS」という文字が書かれたシャツを見せたことがあるほか、The Prizeというクリスチャンのサッカー選手の話を集めたDVDに出演[12]した際に、「SEXは結婚してからの祝福」と発言し、結婚するまで童貞だった事も告白している。
名前について [編集]

「カカ(Kaká)」という名前は、幼い弟が本名の「リカルド」を発音できずに「カカ」と呼んでいたことに由来する[13]。そのため何の意味も込められたものではない。しかし、イタリアやポルトガルなどのラテン語圏において、「カカ」と言う呼び名は発音によっては汚物(CACCA)を意味するため、ACミランへ移籍する際は愛称を変えなくてはならないというような議論もされたらしく、またミランより先にオファーしていたユヴェントスがこのような理由で獲得を断念したという。「Kaká」は2番目の「á」にアクセントをつけて発音するため、「カ(ッ)カァ」という感じで聞こえることが多い。なお、イタリア語などでは、そのアクセントの表記法に従いKakàとなることがある。なお、ミランでは「リッキー」という愛称で呼ばれていたとのこと。
エピソード [編集]



カカと妻のカロリーネ
18歳の時、プールで遊んでいた際に頭部を強打し頸椎を損傷する重傷を負い、あわや下半身不随寸前の怪我だったものの、極度の近視となった以外は幸いにも運動能力にはほとんど影響は見られなかった。また、事故からわずか4ヶ月後にはサンパウロFCのトップチームデビューを果たしている。試合中はコンタクトレンズを使用し、普段は度の強いメガネをしていたが、2007年6月に極秘でレーシック手術を受けた模様。なお、本人は「あの事故を契機に人生観が変わった」と語っている[13]。
用具等はアディダス社と契約している。
実弟のロドリゴも2005年にACミランへ入団、ジゴン(Digão)の名で選手登録されている。ジゴンは2007年夏にレンタル終了でミランに復帰し、兄と共にプレーしていた。
ACミランからの移籍金は自分の取り分も含めて全額をサンパウロFCへお世話になったお礼にと渡してしまった。これを知ったミラン経営陣は感激してもう一度カカの取り分を支払った。
サンパウロFCでは背番号8番を、2002 FIFAワールドカップでは背番号23番をそれぞれ着けていたが、ミランでは既にジェンナーロ・ガットゥーゾ、マッシモ・アンブロジーニがそれぞれの番号を着けていたため、自身の誕生日の日付にちなんで22番を背負うことになった[13]。また、レアル・マドリードでは当初、かつてジネディーヌ・ジダンが着けていた5番を着けることが噂されたものの、最終的には本人の希望で8番を背負うことになった。
2004-2005シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝戦におけるリバプールFC戦の敗北(イスタンブールの悲劇)について、「たとえこの先何度優勝できたとしてもあの敗北を忘れることは出来ない」と語っている[13]。
サンパウロFCに所属していた17歳の頃、クラブの深刻な財政難からトルコのクラブ、もしくはCSKAモスクワに売却されそうになった。だが本人は「あの時に移籍していても今のように素晴らしいキャリアを築くのは難しかっただろう」と語っている[13]。
2005年12月、長年の遠距離恋愛をへて5つ下のブラジル人女性カロリーネ・セリコと母国ブラジルにて結婚した。彼女の母親はブラジルのディオール支社の幹部。2008年6月10日、長男ルーカが誕生。
カカにとってのアイドルは、ブラジル代表やサンパウロFCなどでプレーしたライー[13]。
呂比須ワグナーとは仲がよく、オフの時はゴルフに行く。
無人島に3つ物を持っていくとすればサッカーボール、聖書、iPodを持っていきたいと語っている。
「もがみ国際交流協会」を通した、サンパウロFCのジュニアチームと地元少年サッカー少年団との国際親善試合の第1回の招待チームの一員として1993年10月に訪日。山形県最上町に滞在したことがある[14]。当時11歳だったカカは、この試合で最優秀選手に選ばれ、賞金5千円を獲得[15]。このお金は、「初めてのギャラだ」としてブラジルの実家で大切に保管してあるとのこと。またこのときホームステイした家庭及び協会の事務局長を務めた人物とは今もなお親交があり、カカのことを「日本人以上に律儀な子」と語っているほか、FIFAクラブワールドカップ2007出場のため来日した際には2007年12月6日に放送された同大会の特番の番組内で再会を果たしている。なお、事務局長夫婦とのその後の交流を描いた物語が、「日本のお父さん、お母さん」というタイトルで平成20年度の日本の小学校の道徳の教科書に掲載された。
FIFAクラブワールドカップ2007出場のため来日していた2007年12月8日、パオロ・マルディーニやカフー、クラレンス・セードルフらACミランのチームメイト及びスタッフと共に横浜アリーナで開催されたK-1 WORLD GP 2007 FINALの観戦に訪れ、同大会の中継でも観戦している様子が流された。
FIFAクラブワールドカップ2007の大会MVP受賞で獲得した賞金約2050万円(12万8000ユーロ)を、ACミランが運営する基金に全額寄付した[16]。
2008年5月、アメリカのタイム誌による「世界で最も影響力のある100人」に選出された。アメリカという決してサッカー人気が高いとは言えない国による選出には本人も大変感動し、それと同時に正しい価値観を伝えていく責任や義務も感じたという。尚、この100人の中で彼は唯一のサッカー選手である。また、2009年にも同じく選出された。
2010年5月28日に配信された週刊トロ・ステーション第三十号にビデオレターで出演(PlaystationとVAIOの連携によるワールドカップ企画のプロモーションの為)。「トロ・ステーションを見ているみんな こんにちは!カカです。」と挨拶した。
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【2010/11/10 00:51 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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