├─≠ョ─ヵラス 消費税概要 [編集]
自由民主党の最大派閥であった経世会の創設者として政府・与党に影響力を誇った。ふるさと創生1億円、消費税導入などを行った政治家。リクルート事件により総辞職したが、その後も政界に甚大な影響力を持っていた。
昭和最後の内閣総理大臣であり、平成改元の際の内閣総理大臣でもある。
また竹下家12代当主で第74代内閣総理大臣であった竹下を偲び、生前交流があった関係者の好意、浄財によって、7回忌に当たる平成18年(2006年)5月、竹下登記念館が建てられた[1]。
来歴 [編集]
生い立ち [編集]
島根県飯石郡掛合村(現・雲南市)に父・竹下勇造、母・唯子の長男として生まれた。竹下家は300年つづいた旧家で、江戸時代には庄屋を務め、幕末から代々造り酒屋を営んでいる[2]。登は竹下家の12代目である。
学生時代 [編集]
旧制松江中学校(後の島根県立松江北高等学校)卒業後、旧制松江高等学校(後の島根大学)の入試に失敗し、1年間の浪人生活を送り、第一早稲田高等学院を経て1944年(昭和19年)4月、早稲田大学第一商学部に入学。その直前の3月、素封家の娘・竹内政江と学生結婚をする[3]。
1944年(昭和19年)8月、軍隊に入ると同時に、陸軍特別操縦見習士官の第四期生に志願する[4]。
1945年(昭和20年)3月、実母・唯子が41歳の若さで京都の病院で死亡[5]。
1945年(昭和20年)5月、妻・政江が自殺。妻の自殺理由に関する噂は生涯、竹下を苦しめた。自殺する少し前、舅・勇造による執拗な“干渉”に思い悩んでいた政江は、竹下に相談するため、わざわざ島根から上京していたが、竹下は“お前のほうに問題がある”と逆に叱責したという[6]
1946年(昭和21年)1月に遠藤直子と結婚。同年11月大学在学中でありながら掛合村の農地委員に立候補し、当選。戦後の農地解放に地主生まれでありながら率先して取り組む。1947年(昭和22年)9月早稲田大学第一商学部を卒業する。
帰郷 [編集]
郷里・島根に帰り1947年12月より地元掛合中学校の代用教員(英語科)となる。後日内閣総理大臣に就任した際に「元中学校の英語教師が日本の総理大臣になる」と世界中のマスコミに報道される。しかし実際の英語力は時代背景もあるがお粗末なものだったらしい(英語通で有名な同年代の宮澤喜一とは比べるべくもない)。
傍ら、青年団活動に身を投じた。岩瀬達哉著『われ万死に値す—ドキュメント竹下登』77ページに当時の教員仲間の証言がある。元同僚教師は「そもそも竹下先生が代用教員となったのは、青年団運動をやるためだったと聞いています」、「普通、青年団の活動というのは一日の仕事を終えた夕方からはじまるものです。竹下先生はそれまでの間何をするでもなくブラブラしていた。大学まで出て昼間から遊んでいたのでは何かと世間体が悪い。ですから当時掛合中学の校長だった鹿田三郎さんが心配して代用教員の職を世話したのです」と述べている。
後に竹下の側近として活躍した野中広務とはこの時代に知り合っている(野中と時間を打ち合わせして同じ山陰本線の夜行列車で上京したこともある。また野中の妻は竹下の掛合中学校の代用教員時代の教え子の一人である)。他にも鳥取県の野坂浩賢や千葉県の浜田幸一とも青年団活動を通じて親しくなり、国会活動の際には党派を超えた友情関係があったとされる。
初当選 [編集]
奥出雲の山林大地主である田部長右衛門(第23代)(1959年より島根県知事を3期12年務めた)より、強い支援を得て政界へ進出。島根県議会議員2期を経て、島根県全県区から第28回衆議院議員総選挙に34歳で立候補し、1958年(昭和33年)5月に初当選。同じく初当選を飾った金丸信、安倍晋太郎とは、終生深い信頼関係を築く。その後も衆議院議員総選挙で、連続14回当選した(最後の選挙区は小選挙区制になっての初の選挙で島根2区から出馬)。
ニューリーダーへ [編集]
自民党内では佐藤派、後に田中派に所属。佐藤栄作と、佐藤派五奉行の1人で早大雄弁会の先輩でもある橋本登美三郎の寵愛を受ける。1964年(昭和39年)11月に佐藤内閣が誕生すると、内閣官房長官に就任した橋本の推薦で内閣官房副長官となり、次代を担うニューリーダーとして次第に頭角を現す。
また、長女・一子が金丸信の長男・康信に嫁ぎ、金丸信との盟友関係はより一層強固なものとなった。この結婚は、佐藤栄作の妻・寛子のすすめによるという。
1971年(昭和46年)7月、歴代最年少となる47歳で第3次佐藤内閣の内閣官房長官として初入閣。田中内閣でも再び内閣官房長官となる。その後も三木内閣で建設大臣、大平内閣で大蔵大臣を歴任した。中曽根内閣では4期連続して大蔵大臣に就任。先進5カ国がドル高是正で一致した1985年(昭和60年)の「プラザ合意」に加わった。
創政会結成から新派閥経世会誕生へ [編集]
1985年2月、派閥領袖の元首相・田中角栄に反旗を翻す形で、金丸らの協力を得て田中派内に勉強会「創政会」を結成。当初はなかなか煮え切らない竹下の態度を周囲は心配したが、田中との会談中「俺がもう一回やってからお前がやれ」との発言に決意を固めたといわれている。反田中派の動きに激昂した田中の猛烈な切り崩しに遭うも、田中はそのさなかに脳梗塞で倒れる。
やがて田中派内部は派閥会長の二階堂進派と創政会派、そして派内融和の中間派の三つに分かれる。その後、二階堂と竹下はしのぎを削るが二階堂は高齢で資金力が乏しく、また田中の威光が弱まった結果、中間派を取り込んだ竹下は1987年(昭和62年)7月、「経世会」(竹下派)として正式に独立。竹下派には田中派141人のうちの118人が参加し党内最大派閥の領袖となった。田中の意に反した竹下派への参加を潔しとしない田中派メンバーは徹底的に追い詰められ、田中派会長の二階堂を中心とする少人数のグループ(二階堂グループ)へと転落した。
このときのメンバーだった橋本龍太郎、小渕恵三、梶山静六、小沢一郎、羽田孜、そして田中側近の小沢辰男に近いことから当初参加せず後から参加した奥田敬和、口が軽いとみられ早稲田の後輩ながら誘われなかった渡部恒三は後に竹下派七奉行と呼ばれた。後の幹部に野中広務、綿貫民輔、村岡兼造らがいた。また、後に民主党代表となる鳩山由紀夫、岡田克也も若手として所属していた。
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