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【2024/11/28 10:38 】 |
踊り249
内閣総理大臣 [編集]


1988年、トロントサミットに出席


訪米時に政府専用機として使用された日本航空のマクドネル・ダグラスDC-10型機から降機する竹下と妻・直子
昭和最後の総理大臣 [編集]
経世会を結成した1987年の11月に、中曽根康弘首相の裁定により安倍晋太郎、宮澤喜一の2人を抑え第12代自民党総裁、第74代内閣総理大臣に就任した。
首相としては初の地方議会議員出身者で、同時に初の自民党生え抜き(初当選は、保守合同後初の総選挙:1958年5月)であった。また竹下は昭和最後の総理大臣でもあった(奇しくも大正から昭和にかけての総理は、同じ出雲出身の若槻禮次郎)。
首相時代の答弁は「言語明瞭・意味不明瞭」と評され、回りくどい表現が多いことで有名だった。
主な施策と事件 [編集]
全国の市町村に対し1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)にかけて地方交付税として一律1億円を支給するふるさと創生事業を実施した。
1988年、野党や世論に強硬な反対意見が多かった税制改革関連法案を強行採決で可決し、日本初の付加価値税である消費税を導入した。
日米貿易摩擦の懸案の一つだった牛肉・オレンジについて、日米間の協議で輸入自由化することで合意した。
1988年にリクルート事件が発覚し、政治不信が高まった。竹下自身の疑惑も追及され、秘書で竹下の金庫番といわれた青木伊平が1989年4月26日に自殺している。
現職首相として靖国神社に参拝しなかったのは石橋湛山以来。
退陣 [編集]
こうした状況のなか世論の反発を受け、支持率がついに3.9%に落ち込むまでに至り、財界も石原俊らが公然と竹下の退陣を迫り、1989年6月3日に内閣総辞職に追い込まれた。内閣総辞職直前には竹下登邸周辺でデモも起きた。この竹下邸は旧佐藤栄作邸である。
総理大臣退任後 [編集]
首相辞職後も表向きは「玉拾いに徹する。」と言いつつも宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一という歴代の内閣誕生に関与するなど、政権に強い影響力を持っていた。しかし、1992年(平成4年)に東京佐川急便事件が発覚。1987年の総裁指名に関連したほめ殺しで知られる皇民党事件が報道されるなど、ますます政界不信が高まり自民党支持が減る原因となった。
1992年10月、東京佐川急便からの5億円闇献金事件の責任を負って金丸信が議員辞職、竹下派会長辞任に追いこまれると、後継会長に小渕恵三を推す派閥オーナーの竹下と、羽田孜を推す会長代行の小沢一郎の主導権争いは激しくなった。竹下は中立を守っていた参議院竹下派に対する多数派工作などを行い、小渕を強引な形で後継会長に据えた。これに反発した小沢、羽田らが新派閥・改革フォーラム21を結成、竹下派は分裂状態となった。この派閥は1993年(平成5年)6月に自民党から離脱し、新生党となった。そして同年7月18日の総選挙で自民党は過半数割れし、新生党、社会党、日本新党など非自民8党連立による細川内閣が誕生。
自民党は1994年(平成6年)の社会党との連立による村山内閣発足を機に政権に復帰。村山内閣誕生に竹下も深く関与したことから再び隠然たる影響力を持つようになり、村山内閣後は竹下派出身者による橋本内閣、小渕内閣を実現させた。
竹下は、1999年(平成11年)4月から体調不良のため北里研究所病院に入院、表舞台にでることは少なくなった。かわって、竹下と同じ島根県出身で「竹下の黒子」といわれていた参議院議員・青木幹雄が政界の実力者として取り上げられることが多くなった。容態は次第に悪化し、4月に小渕が倒れたとの一報を聞いたことも手伝い、引退を決意する[7]。 そして2000年(平成12年)5月1日、病床で録音した竹下の引退宣言のテープを、当時の竹下派の最高幹部たちが本人不在のなかで記者会見において発表した。そこで次回の衆議院議員選挙に立候補しないことを表明し、政界からの引退を宣言した。引退表明後は議員でなくなったことで気力が失われたのか急激に弱っていったという[8]。
第42回総選挙期間中の2000年6月19日、北里研究所病院にて膵臓癌、発表では脊椎変形症による呼吸不全のため死去、76歳没。法名は顕政院釋登涯。選挙区地盤を譲られた異母弟の竹下亘は錦織淳らを退け当選している。
人物像 [編集]

初当選した衆院選の公示日に出雲市の目抜き通りで「島根に生まれ、島根に育ち、やがて島根の土になる」と第一声を上げた。
口癖は「~だわな」。これは出身地の方言(出雲弁)の影響である。
国会答弁などでは、はきはきと発言するが文章全体の意味がつかめないという、言語明瞭、意味不明瞭な竹下語を駆使し、野党に言質を与えることがなかった。
竹下の秘書出身で、後に参議院のドンと呼ばれる青木幹雄にもこの傾向があるとされる。
「気配り・目配り・金配りで総理になった」と揶揄されるほど敵を作らない性格であり、政財界に幅広い人脈を持っていた。他派閥では安倍晋太郎、宇野宗佑、海部俊樹、藤波孝生、河野洋平、三塚博、武村正義、野党では村山富市、山口鶴男、矢野絢也、塚本三郎などと交流があった。「反経世会」を掲げる小泉純一郎(後に首相)とも大蔵大臣-大蔵政務次官としてコンビを組んだ間柄であり、悪い関係ではなかったようだ。とはいえ「竹下さんの頃の早稲田は無試験だったんですってねえ」など、学歴関係で馬鹿にしてきた宮澤喜一には、さすがに我慢ならなかったようである。
清和会に所属していた作家石原慎太郎(竹下内閣で運輸大臣)も、(回顧録ほかの)独自の文章表現で、政治的な天才と評している。なお石原は、宮澤を最も毛嫌いしていた。
1988年、消費税導入が可決されるとリクルート事件の影響もあって国民から厳しい批判を浴び、内閣支持率は史上最低に落ち込んだ。しかし竹下は「消費税を導入したことは後世の歴史家が評価してくれる」と語った。実際、現在において竹下内閣の最大の功績は大平、中曽根両内閣が実現できなかった消費税導入を実現した事とする見方が一般的である。
自社さ連立政権で行政要職経験もなく突然不慣れな内閣総理大臣の職を務めた村山富市にとって、同い年の竹下は党派を超えて「良き相談相手」だったことを語っている[9] (竹下は1924年(大正13年)2月26日生まれ、村山は同年3月3日生まれと1週間しか誕生日が離れていない)。
元 社会民主党、衆議院議員の辻元清美は、これまでで一番面白いと思った政治家は誰かの質問に真っ先に竹下の名前を挙げている。
佐藤政権時代、ズンドコ節の替え歌を作り「講和の条約吉田で暮れて 日ソ協定鳩山さんで 今じゃ佐藤で沖縄返還 10年たったら竹下さん トコズンドコ ズンドコ」と宴席で歌っていた。
経世会の議員は中選挙区時代に自民党同士の争いになった場合でも落選することが少なかった。「選挙上手」が多いことで知られていたが、これは竹下の選挙戦略を用いていたため、といわれる。竹下自身「私の専門は選挙学」と言い、周囲から「選挙の神様」と呼ばれていた。
総理就任後、2週間も経たないうちに首相官邸にて右翼団体幹部と面会し、一部からはその見識を問う声が上がった。
長年田中派の後継者と見られていながら、頭を抑えられ耐え忍んでいたため、当時NHKで放送されていたドラマになぞらえておしんと呼ばれていたこともあった。
孫の影木栄貴、DAIGOや妻の直子によると、総理に就任し帰宅した時の一声は「アイムソーリ、ボクソーリ」で、この台詞がお気に入りだったという。
後藤謙次によれば、孫のDAIGOが髪を青く染めた時、竹下は「おい後藤、ロックってのは髪を青くしなきゃ出来ないのか」と尋ねたという。
絶対に人の悪口を言わないことで有名だった。また、「石橋どころか二重橋でも叩いて渡る」といわれたほどの異常な慎重さでも知られる。
他人を絶対怒らないことでも有名。航空隊員として出征した竹下は、当時すでに結婚していたが、基地を訪ねてきた妻・政江を痛罵した。しかしそれにショックを受けた政江は、島根に帰った後自殺してしまう。このことがトラウマになった竹下は、以後他人を叱れなくなったという。また、出征中に政江が妻を亡くしたばかりの竹下の実の父親勇造と肉体関係を持たされていたことが自殺の背景にあったとの噂がその後の竹下をさらに苦しめることになる。後日竹下の父親も戦死した軍医の未亡人と再婚し、後妻との間に異母弟である亘と三郎と一女が生まれる。
リクルート事件もあって首相在任中は、週刊誌を中心に金権政治批判を受けていたが、週刊誌を告訴するよう迫った側近に対し、「権力者というものはそういうことをすべきではない」と側近をたしなめた。
死後、元韓国大統領・金泳三が早稲田大学で行った講演の中で、日韓共催サッカーW杯の発案者が竹下であることを明らかにした。
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【2010/11/02 22:37 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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