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【2024/10/06 12:31 】 |
トーキョースパムCHANNKOSUMOと柳沢敦
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トーキョースパムCHANNKOSUMO とりあえず貼ろう

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【2010/11/18 22:15 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
├─≠ョ─ヵラスとUVERworld
├─≠ョ─ヵラス TAKUYA∞
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス バンド名の意味は「自分達の世界をも越える」である。
【2010/11/17 20:08 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
├─≠ョ─ヵラスと美輪明宏
├─≠ョ─ヵラス 山犬モロ
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 美輪 明宏(みわ あきひろ、1935年5月15日 - )は、日本のシンガーソングライター、俳優、演出家、タレント。長崎県長崎市出身。本名:丸山 明宏、幼名 臣吾(しんご)。海星中学を経て国立音楽大学附属高校中退。愛称はマルさん、美輪さん。自らの個人事務所である、オフィスミワ所属。
1971年までは本名の丸山 明宏名義で活動していた。兄と姉と弟のいる五人兄弟の次男。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 長崎時代
1.2 歌手 丸山明宏
1.3 俳優 丸山明宏
1.4 美輪明宏への改名と体調の悪化
1.5 黒蜥蜴再演
2 人物
2.1 交友関係
3 その他
4 ディスコグラフィー
4.1 シングル
4.2 オリジナルアルバム
4.3 編集アルバム
4.4 企画アルバム
4.5 ライブアルバム
4.6 ボックス・セット
4.7 映像作品
5 主な出演作
5.1 舞台
5.2 映画
5.3 テレビ
5.3.1 ドラマ
5.3.2 バラエティ他
5.4 ラジオ
5.5 CM
5.6 携帯公式サイト
6 著書
6.1 単著
6.2 共著
7 外部リンク
8 脚注
経歴 [編集]

長崎時代 [編集]
美輪の実家は長崎市内の「丸山遊郭」と呼ばれた遊郭街でカフェを経営していた、しかし戦時体制の中で美輪の父親は“敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ”と言われてカフェを閉店せざるを得なくなり、金融業に転業。10歳だった美輪は長崎への原爆投下時、長崎市本石灰町(爆心地から約4キロ)の自宅におり無事だったが[1]、その後、近くの防空壕で待機した後に爆心地近くにあった生母の実家へ祖父母を1人で探しに行き惨状を目の当たりにする。
原爆に因って父の貸付先が相次いで破産・他界した為、美輪一家は貧乏生活を余儀なくされた。その前に美輪の父の後妻が他界しており、父の後々妻も失踪するなどの不幸に見舞われ、美輪は幼い異母弟達と辛い日々を送る事となった。
終戦後に観た映画に出演していた加賀美一郎のボーイソプラノに衝撃を受け、程なくして声楽とピアノのレッスンを受け始める。海星中学では同期に西岡武夫がいた。エンリコ・カルーソーやベニャミーノ・ジーリの様なオペラ歌手、コンサート歌手を夢見て、1951年春に高校進学のため15歳で上京する。
歌手 丸山明宏 [編集]
上京し高校へ進学、しかし家業が倒産し中退、翌1952年、17歳になった美輪は新宿駅で寝泊りしていたが銀座のシャンソン喫茶『銀巴里』との専属契約が叶い歌手デビュー。国籍・年齢・性別不詳として売り出す。 次第に人気を博し、三島由紀夫、吉行淳之介、野坂昭如、大江健三郎、中原淳一、遠藤周作、寺山修司、なかにし礼らの支持を得る。
1957年、 フランスのシャンソン『メケ・メケ』を日本語でカバーし、大ヒットとなる。元禄時代の小姓の衣装を洋装に取り入れ、レース地のワイシャツなどを身に纏いユニセックスファッション[2]と、「天上界の美」と三島由紀夫が絶賛した美貌で、マスコミから「神武以来の美少年」、「シスターボーイ」と評され一世を風靡する。同じ1957年製作の映画『暖流』(増村保造監督。大映)に歌手で出演しており、カラー映像で当時の美輪の流麗な姿を見る事ができる。
『メケメケ』以来のブームは1年程で沈静化。その間に雑誌を通じて同性愛者である事を公表した[要出典]事や、旧来のシャンソンのイメージ(美輪曰く 蝶よ花よ、星よ月よに終始する「おシャンソン」)に無い、自ら訳した生々しい内容のシャンソンを歌った事に対する反発もあり人気は急落する。そんな逆風の中、作詞作曲活動を開始。今もって美輪の主要なレパートリーとなっている『うす紫』、『金色の星』、『ふるさとの空の下』等はこの頃、既に作詞作曲していた。しかし、歌い手が自ら作詞作曲した歌を唄う事には当時の聴衆からも歌謡界からも理解を得られず、レコード化すらできなかった。美輪曰く「人様の情けに生かされた」不遇の時代が続くと共に洗面器に多量の吐血をするなど原爆の後遺症に悩まされ始める。
しかし1963年には、中村八大らの助力により日本初の全作品自らの作品によるリサイタルを開く。翌1964年には『ヨイトマケの唄』を初めてステージで披露する。1966年、前年の内にレコード化されたヨイトマケの唄(『ふるさとの空の下』とのカップリング)が注目され人気が再燃。
俳優 丸山明宏 [編集]
1967年に、寺山修司の演劇実験室・劇団天井桟敷旗揚げ公演で、寺山が美輪の為に書き下ろした『青森県のせむし男』や『毛皮のマリー』に主演。
1968年、自伝『紫の履歴書』を発表。(初版は大光社より)
『黒蜥蜴』以降も『椿姫』、『マタ・ハリ』、ジャン・コクトー原作『双頭の鷲』(王妃の演技に対し、日本初の女王役者誕生と賞賛された[要出典])といった舞台や『黒薔薇の館』、『雪之丞変化』等の映画・テレビドラマでの主演を続ける。また1970年からはTBSラジオ「ラジオ身の上相談」を担当し、芸能人が担当する人生相談としては異例の25年という長期に渡り続いた。
美輪明宏への改名と体調の悪化 [編集]
1971年、読経中に『美輪』の字が浮かび、神様が下さった名前だと思い、姓名判断を調べると完全無欠な画数だった為丸山明宏から美輪明宏に改名[3]。「女優引退宣言」(女性役を演じなくなるので、当時こう表現された)を行い、歌手活動に専念する。銀巴里やジァンジァンでのライヴや全国各地でのリサイタルを精力的に行い、『白呪』(1975年)等のアルバムも多数発表した。また男性役では映画(1977年 井上ひさし原作『日本人のへそ』)やドラマ(1976年『さくらの唄』)に出演している。
1978年『枯葉の寝床』(原作 森茉莉)で舞台活動を再開するが、この頃より慢性気管支炎になり、年々悪化。俳優、歌手活動に支障をきたしはじめ、トークショー等のテレビ出演を控えるようになる。しかし、その後も演劇では1979年にエディット・ピアフの生涯を描いた、自作自演となる『愛の讃歌』を初演したり、1980年の「メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行」では夜の女王役を好演している。
1983年には『毛皮のマリー』や『青森県のせむし男』を再演。更に1984年には『双頭の鷲』を再演するが、体調は悪化する一方で1985年の『大典礼』(原作・演出 フェルナンド・アラバール)を最後に1993年の『黒蜥蜴』再演まで再び舞台から降りる事となった。病状は深刻で、激しい咳のため肋骨が折れたこともあったという[要出典]。
なお、歌手としては1984年にパリで、1987年にはパリ、マドリード、シュトゥットガルトでリサイタルを行い『ル・モンド』、『リベラシオン』を始め多数の新聞・雑誌に紹介・絶賛された。また1986年からは現在も続くPARCO劇場でのロングリサイタルが始まり、それ以外にも全国各地でのリサイタル公演を行い、舞台に立てなくなった後も切れ目なく活動を続けた。
1990年、東京芸術劇場のこけら落し公演『マリー・ローランサン』を演出。この時既に『黒蜥蜴』再演の企画は持ち上がっていたが、体調面から断念している。またこの年、40年近く唄い続けて来た銀巴里が閉店となり、美輪は最後の日の「さよならコンサート」で自ら作詞作曲した『いとしの銀巴里』を涙ながらに歌い上げた。この模様を各メディアは挙って大きく報じ、また翌1991年の映画『黒蜥蜴』のニューヨークでのヒットなども重なり、この頃から美輪が言う「メケメケ、よいとまけ、黒蜥蜴に続く四回目のブーム」の時期が訪れ、テレビやCM等への出演が増えた。
黒蜥蜴再演 [編集]
1993年、1985年の『大典礼』以来舞台に立てない程に悪化していた持病が前年に奇跡的に完治した事で、24年ぶりに待望の『黒蜥蜴』を再演[4]。前売りのチケットは発売日当日に完売するなど世間の注目を集めた。またこの再演時には自ら主演、演出、美術、衣装、選曲を担当。以降上演される舞台は1994年、1996年の『毛皮のマリー』以外、全て美輪自身の演出となった。美術・衣装・選曲も務めることが多く、脚本・振り付けを担当した作品(美輪明宏版「椿姫」)や原作まで担当した作品(「愛の讃歌」)もある。
1994年には『毛皮のマリー』を海外から演出、照明、音楽など当代一流のスタッフを招き再演。この形式は1996年の再演時にも引き継がれるが、美輪曰く「演出があんまりひどい時は私が手直しした」とのことで、結局2001年の再演では自ら演出する事となる。キャストも美少女を含め全員男性で演じる本来の形式に戻された。
1996年、三島由紀夫が30年来熱望していた美輪演出・主演による『近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町』を上演。三島を歓喜させた当初のプラン通り、サルバドール・ダリと尾形光琳を取り入れた舞台デザイン(葵上)や99歳の老婆から19歳の美女への早替り(卒塔婆小町)など趣向を凝らした舞台となる。また、その年の秋には『愛の讃歌』を17年ぶりに再演した。
1997年、13年ぶりの『双頭の鷲』再演で読売演劇大賞優秀賞を受賞。 映画『もののけ姫』では山犬神、モロの君の役で声優を務め、東京スポーツ映画大賞助演男優賞を受賞する。
1998年には再び『葵上・卒塔婆小町』を上演、秋にはデュマ・フィス原作「美輪明宏版 椿姫」を30年ぶりに上演し、いずれも好評を博す。この年2本の芝居を上演したのを最後に翌年の『双頭の鷲』以降、舞台作品は年1本の上演ペースとなる。一方、美輪が舞台活動を再開した1993年以降、芝居のスケジュールとの調整が必要となり公演が無い年(1996、1997年)もあったPARCO劇場でのロングリサイタルは1998年以降「音楽会」と名を改め、毎年行われる様になる。以来、美輪のステージは春先の芝居、秋の音楽会で定着し、現在に至っている。
2000年、銀巴里閉店後、唯一のライヴ活動の場となっていた渋谷ジァン・ジァンが閉場となり、2000年3月29日が美輪のジァンジァンにおけるラストライヴとなった(閉場は2000年4月25日)。そしてエディット・ピアフの生涯を描いた「愛の讃歌」を上演。またこの年、アルバム『白呪』が再発売される。桑田佳祐がフジテレビ系『桑田佳祐の音楽寅さん~MUSIC TIGER~』内で『ヨイトマケの唄』を歌ったのもこの年である。[5]
2002年に芸能生活50周年を迎える。この年には三島由紀夫の三十三回忌に際して「近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町」を再演している。(相手役は宅麻伸)
2005年にはテレビ番組『オーラの泉』が始まり、「愛の伝道師」として出演している。
2006年、「愛の讃歌」を再演。
2007年、美輪明宏携帯サイト「美輪明宏 麗人だより」をスタート。
2010年、「近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町」を再演。(相手役は木村彰吾、岩田知幸)
人物 [編集]

中性的な外見から『ウルトラQ』の第16話の準備稿ではセミ人間のイメージキャストとして丸山 明宏(美輪の本名)が挙げられている。
かつて『さんまのからくりTV』に出演した際には珍答・奇答を連発し、正解はなかったが "ナイスなボケ" に対して付与される「ナイスボケ」を4つ獲得し優勝した事もあった。
『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』に出演した際には「仮面ライダーとウルトラマンの共演作があった」というトリビアを「こんな馬鹿馬鹿しいの大好き」と笑い、満「へぇ」を打った。
入浴時には肌のために石鹸を使用せず伯方の塩で身体を洗う[要出典]。『トリビアの泉』で「伯方の塩は国産ではない」というトリビアを知ると、がっかりしたものの「海は世界でつながっているものね」と返した。
三島由紀夫が自殺した翌年の1971年(自身36歳)頃には一気に白髪になったと語っている[要出典]。長らく髪の毛を黒く染めていたが、最近は風水に基づき黄色く染めロング・ヘアーにしている。
好きな食べ物は?との問いに、「人の悩みを食べて、涙を飲んで生きてるの」と答えた[6]。
2005年4月、『薔薇族』復刊号で伊藤文學編集長との対談に応じた。
2006年8月19日、NHKのスポーツ番組にゲスト出演した際、高校野球の決勝戦(駒大苫小牧対早稲田実業)について、アナウンサーからどちらが勝つと思うかと質問されると、どちらも頑張っているので引き分けになってほしいと答えた。翌日の決勝戦では延長15回1-1の引き分けになり、翌日再試合となった。
冗談を言う事が好きで、『SMAP×SMAP』では、中居正広の前世がピカソ、「あんな絵が描けるのはピカソしかいない」と言った(中居が生まれたころピカソはまだ生きている)。また、『中居正広の金曜日のスマたちへ』の特番にゲスト出演した際には中居正広の前世を「あなたは前世でもとても有名だったのよ。きつねとたぬきのハーフで名前は『どん兵衛』という名前だったのよ」と言った。
日本音響研究所の鈴木松美によると、美輪の声には周波数ゆらぎと振幅ゆらぎが含まれているという。
交友関係 [編集]
銀巴里時代から現在まで、数多くの作家(三島由紀夫、江戸川乱歩、澁澤龍彦、吉行淳之介、瀬戸内寂聴、なかにし礼、大江健三郎など)や画家(東郷青児、中原淳一、横尾忠則など)、演劇人(十七代目中村勘三郎、十八代目中村勘三郎、杉村春子、初代水谷八重子、二代目水谷八重子、赤木圭一郎、寺山修司、蜷川幸雄、五代目坂東玉三郎、渡辺えりなど)、作曲家(池辺晋一郎など)、歌手(フレディ・マーキュリー、吉井和哉など)と交流。
スピリチュアルカウンセラー江原啓之に信頼を置き、霊能者木村藤子とも親交関係を築いている[要出典]。
(信頼するあまりオーラの泉に出演する事で江原の霊能者としての知名度を高める結果となり、江原の仕事の片棒を担いでいるという批判を受ける事も良くある)
奥山和由の監督作品『RAMPO』を絶賛しており、奥山が松竹を追放された後に設立した会社「チームオクヤマ」の名付け親になるなど応援し続けている。
華道家の假屋崎省吾は美輪明宏のおっかけ(本人公認)を自認しており、美輪から「美をつむぎ出す手を持つ人」と評された事を誇りにしている。
交友関係のあった作曲家、古賀政男の最後の門下生であった佳山明生の名付け親でもある(本名の丸山明宏より苗字と名前のそれぞれ一文字ずつとったもの)。
その他 [編集]

講談社発行の月刊誌「現代」で、2007年9月号から2008年1月号までノンフィクション作家の豊田正義が美輪明宏の評伝を連載した。タイトルは『オーラの素顔』。美輪の少年時代から始まり、赤木圭一郎との哀恋、三島由紀夫や寺山修司との芸術的交流、江原啓之との出会い、『オーラの泉』の裏話まで、美輪の人生が精緻な取材で描かれており、単行本化されている。
【2010/11/13 20:21 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
ジーコの神様踊り
ジーコ(Zico、本名:アルトゥール・アントゥネス・コインブラ、Arthur Antunes Coimbra、1953年3月3日 - )は、ブラジル出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。
「Zico」は「やせっぽち」の意味で、より原音に近い表記をすればズィッコとなる。
目次 [非表示]
1 人物
1.1 学歴
1.2 プレースタイル
1.3 愛称
1.4 家族
1.5 日本国外での評価
1.6 アーサー王
1.7 ジーコレーベルとサンバ
1.8 退場処分
2 来歴
2.1 幼少期
2.2 フラメンゴ
2.3 ウディネーゼ
2.4 ブラジル代表
2.5 短い引退
2.6 鹿島アントラーズ
2.7 ジーコジャパン
2.8 2006年以降
3 統計
4 個人タイトル
5 個人成績
5.1 主な監督成績
6 監督として
7 日本とジーコ
7.1 その他
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
人物 [編集]

学歴 [編集]
カステロブランコ大学体育学科出身。
プレースタイル [編集]
ブラジルスタイルの抜群のテクニックを持ち、ドリブル、パス、シュートの三拍子を持ち合わせた1980年代の代表的な10番。右足から繰り出される長短のパスの正確さは世界最高峰で、前線に張る選手、背後から飛び出す選手を問わず、絶妙のタイミングで正確無比なパスを飛ばす。むろんプレースキックも大きな武器だった。得点能力という点ではFWを凌駕するほどで、FWの後ろから飛び込むダイレクトプレーを始め、常に得点を狙う攻撃的MF。また計画的なフィジカル強化によって、強靭な肉体も併せ持っていた。
ジェフ市原(現・ジェフ千葉)のDFとして対戦経験もある宮澤ミシェル曰く「ボールの捨て方もうまかった選手」。エースであるジーコには相手選手の何人もの激しいプレッシングが襲いかかり、結果ボールを回さざるを得なくなること(これを「捨てる」と表現)も多々あったのだが、ジーコはボールをそのまま下げるよりむしろ無理な体勢からでも相手バックラインの隙間を狙ったスルーパスを狙い、結果走り込んだFWやサイドMFへのアシストにつながることが多かったという。
愛称 [編集]
ブラジルサッカー界の英雄であるペレになぞらえ「白いペレ」とも呼ばれていた。また、長く選手として在籍したフラメンゴのホームスタジアムエスタジオ・ド・マラカナンの名称から「マラカナンの英雄」とも謳われた。 幼少時代に兄が所属するチームが得点する度に雄鶏(galo ガーロ)の掛け声(cocorecoo!)をしていた事から「キンチーノのガリーニョ」[1]と呼ばれた。サッカーを目指した華奢で小柄なアルトゥール少年は周囲から「アルトゥルジーニョ」と呼ばれ、アルトゥールズィッコ(Arturzico)となり、最後は語尾の「ZICO」だけとなり以後定着している。フラメンゴ時代やブラジル代表時代、また鹿島アントラーズ時代の選手、親しい関係者間では「ガーロ」の愛称で呼ばれている。 飛躍的に向上した日本サッカー文化への貢献とネームバリューから、日本では「サッカーの神様」と呼称される事も多い。 フェネルバフチェSK監督時代にはファンから本名のアルトゥールと同じ綴りであるアーサー王伝説から「アーサー王(King Artur)」と呼ばれている。
家族 [編集]
1975年にサンドラ夫人と結婚。3人の息子をもうける。長男のジュニオールは元サッカー選手、サガン鳥栖でプレイしていた時にはジーコも鳥栖まで訪れた。次男はブラジルで有名な歌手ブルーノ・コインブラ。実兄はエドゥ(元鹿島アントラーズ監督、元日本代表テクニカルディレクター)。
日本国外での評価 [編集]
2003年には母国ブラジルで過去30年で最も輝いた選手としてジーコが1位に選ばれた。ブラジル国民の大半がインターネットなどで投票し、2位のロナウドとはダブルスコアの大差であった。また、主に攻撃的MFとしてプレーしながらロマーリオに次ぐブラジル歴代代表3位の66得点(88試合)の記録を持つ。 サッカー日本代表の親善試合でイギリス遠征中、ジーコやスタッフの待機する控え室にベッカムが「少年時代のヒーローだった」と正装姿で訪問したり、ブラジル代表のアドリアーノがパルマFCでのチームメイトだった中田英寿に「ジーコのサインが欲しい」と交渉したりと、現代のスーパープレイヤー達も崇拝する名実共にサッカー界の英雄であり、その知名度ゆえ各国のメディアに対する発言力も大きい。
アーサー王 [編集]
フェネルバフチェの監督として、就任1年目にしてトルコリーグを制覇し、また翌年には同クラブ史上初めてUEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメント進出、ベスト8まで進むなど、選手としてだけでなく指導者としても大きな成功を収めた。そのためフェネルバフチェのサポーターからは、本名のアルトゥールとつづりの同じ伝説の王にちなんで「アーサー王」(King Arthur)の愛称でも呼ばれている。
ジーコレーベルとサンバ [編集]
ブラジルは、サンバやボサノヴァ、またブラジル音楽などで知られる音楽大国であるが、彼もまたブラジル音楽を好むことで知られる。1994年には友人であるファギネルが来日した際のアルバムにコーラスで参加。ポニーキャニオンでは、ホベルト・メネスカルと組んでジーコレーベルと称して、何組かのアーチストのアルバムを発売、また息子であるブルーノもパゴージ(サンバの一形態)でCDデビューを果たした。エスコーラ・ジ・サンバ・ベイジャ・フロールの大ファンとして知られ、その一員としてパレード会場を行進する姿が日本のメディアでも紹介されている。
退場処分 [編集]
フェアプレーが身上であるが、1994年1月に国立霞ヶ丘競技場で行われたJリーグチャンピオンシップ第2戦では三浦知良のPKの際にボールへつばを吐く非紳士的行為で退場(この日2枚目の警告)となり、物議を醸した。
来歴 [編集]

幼少期 [編集]
洋服仕立て屋を営んでいた父・アントゥネス、母マチウデの第6子として生まれる。 母親の意向で息子アルトゥールをミュージシャンにさせるべく幼少時からピアノを習わせるものの彼の兄弟アンツネスとエドゥの影響もあり多くのブラジル人と同様に、サッカー選手を目指す様になる。幼少期はナショナルキッドを見ていたと言う。
フラメンゴ [編集]
1967年、14歳の時にブラジル・リオデジャネイロの名門フラメンゴのユースチームのテストに合格し入団。入団当初はテクニックは通用するが身長1m50cm、体重30kgの「やせっぽち」な体躯であることが致命的になり、ジーコの肉体改造計画がチームスタッフにより立てられた。その計画により筋トレとホルモン注射などを効率よく行なった結果、計画は成功して競り合いに負けない強靱な体を手に入れた(サイボーグと比喩されたことも。)。その後、ユースチームで116試合81得点の驚異的な記録を残すと1971年にジーコはフラメンゴのトップチームに昇格した。
フラメンゴには10年以上に渡って在籍し中心選手として君臨。1981年のコパ・リベルタドーレス、トヨタカップと4度のブラジル全国選手権(1980年、1982年、1983年、1987年)で勝利に導く等、ジーコはクラブ史上で最も素晴らしい選手と考えられている。ピッチではジュニオールやヌネスらのサポートもあり、考えられるあらゆる方法で得点を生み出し、正確なパスでフィールド全体を統率した。
ウディネーゼ [編集]
1983年にイタリアのウディネーゼへ移籍すると、ジーコ個人は1983-84シーズンに19得点をあげ得点ランキングの2位となった(20得点で得点王となったミシェル・プラティニより試合出場が4試合少ない)。これらの活躍によってサポーターの人気を集めたが、クラブとの間で契約問題で揉め、1984-85シーズンを最後にイタリアを去る事となった。また、インテルへの移籍話もあったが上手く交渉がまとまらず実現しなかった。ジーコ自身インテルへの移籍に非常に乗り気だったので残念だったと語っている。
ブラジル代表 [編集]
1976年にブラジル代表に初選出され、FIFAワールドカップへは1978年、1982年、1986年の3大会に出場している。 初のワールドカップ出場となった1978年のワールドカップ・アルゼンチン大会では、初戦のスウェーデン戦で先発出場。終了間際のコーナーキックからの得点が取り消される不運(ウェールズ人主審のクライブ・トーマスはジーコがシュート体勢に入る直前、ボールが空中にある状態で試合終了の笛を吹いたと主張。)や監督との確執もあって不本意な大会となった。
1982年のワールドカップ・スペイン大会では名将テレ・サンターナ監督の下でソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾと共に「黄金のカルテット」を形成。技巧的なパスワークと攻撃力で優勝候補の大本命と目されたが、2次リーグ最終戦でイタリアのカウンターアタックの前に敗れ去り、2次リーグ敗退(現在の規定でベスト8相当)。志半ばで大会を去った。しかし、この時に披露したサッカーは「ブラジルサッカー史上最も魅了したチーム」と称えられ、現在もサッカーファンの間で語り継がれている。2002年以降自身が監督に就任した日本代表の中盤を称した「黄金のカルテット」はこのチームが語源である。
1986年のワールドカップ・メキシコ大会では膝の負傷(国内リーグ戦の、対バングーAC戦で相手DFの悪質なタックルを受けた)によって数ヶ月間プレーを中断していた事もあって控えに回った。最後のワールドカップは準々決勝のフランス戦で交代出場直後にみせたスルーパスとそれによって獲得したPK失敗が最後の見せ場となり、現役を通じてワールドカップ制覇を成し遂げる事は出来なかった。
短い引退 [編集]
1989年3月27日にイタリアのウーディネでブラジル代表引退試合(対世界選抜)が行われ、同年12月のブラジル全国選手権、フルミネンセ戦がブラジル国内の公式戦最後の試合となった。フラメンゴ在籍中に731試合に出場し508得点の記録を残したが、得点はクラブ史上最多記録である。
翌1990年のブラジル初の大統領選挙によって誕生したフェルナンド・コロール・デ・メロ大統領は、ジーコをスポーツ担当大臣に任命した。ジーコはおよそ1年間この政治的な任務を務めたが、1991年に将来のプロリーグ参加を表明していた日本サッカーリーグ2部の住友金属サッカー部(現・鹿島アントラーズ)のオファーを受けると大臣を辞任し、再び現役選手としてピッチに立つ事になった。[2]
ジーコの入団について当時Jリーグ理事長だった川淵三郎は、「当初、紹介した古河電工(現:ジェフユナイテッド千葉)にそのまま加入してもらおうと思っていたが、当の古河電工はジーコ入団に難色を示し、その後断りをいれた。そのため、新たに住友金属を紹介したところ、住友金属のアピールもあって、ジーコの入団が実現した」と語っている。
鹿島アントラーズ [編集]
鹿島アントラーズでは選手としてプレーするだけでなく、現場での全体への指導や試合中の采配も兼任し、カシマスタジアムの芝の長さも自ら決定していた。結果、旧2部リーグの弱小チームを名実ともに日本を代表するサッカークラブに成長させることになる。
1993年にJリーグが開幕した当初、この小さな町のクラブは横浜マリノスやヴェルディ川崎といった大都市の名門クラブに対し圧倒的な不利が予想された。しかし開幕戦の名古屋グランパス戦でリーグ初のハットトリックを決め5-0で圧勝すると勢いに乗り、大方の予想を覆し1stステージ制覇。チャンピオンシップ準優勝の結果を残し日本のサッカー界を積極的に盛り上げ、鹿島町(現・鹿嶋市)からも表彰を受けた。
彼は世界トップクラスの選手として戦術や組織はもちろん、プライド、規律、プロ意識をチームにもたらし、この短期間の成功の大きな支援となった。これによりマスコミやファンは「サッカーの神様」と賞賛した。 1994年第1ステージで現役を退きブラジルへ帰国したが、1995年に鹿島のテクニカル・アドバイザーに就任し、これ以降も日本との関係を維持し続けた。
また、プロとしての現役からは退いたものの、ビーチサッカーのブラジル代表ではプレーしており、ビーチサッカーチャンピオンシップ(後のFIFAビーチサッカーワールドカップ)では1995年と1996年の2大会で優勝し、1995年の大会ではMVPおよび得点王にも輝いている。1996年にリオデジャネイロでCFZ(ジーコFootballセンター)を設立、ブラジル国内の選手育成や、かつては鹿島の若手選手育成の場として用いられていた。1998年に鹿島のテクニカル・アドバイザー在任中に、ブラジルサッカー連盟の要請を受けブラジル代表のテクニカル・ディレクターに就任し、ワールドカップ・フランス大会にスタッフとして参加した。
ジーコジャパン [編集]
2002 FIFAワールドカップ終了後、フィリップ・トルシエの後任として2002年7月22日にサッカー日本代表監督に就任。日本代表監督最高額の年俸だった。それまで監督経験は無かったものの、ブラジル代表のスタッフを務めた経験や、鹿島の選手やテクニカルディレクターとして同クラブの躍進に尽力した経験からの抜擢であり、日本サッカー協会会長の川淵三郎の強い意向でもあった。
ジーコは2004年のAFCアジアカップ2004優勝し、コンフェデレーションズカップの出場権を獲得しブラジル、メキシコ、ギリシャを相手に善戦。またワールドカップ予選を世界中の国に先駆けて最も早く突破、W杯直前のドイツとの親善試合を引き分けるなどの結果を残した。その反面、細かな規律を設けない選手の自主性に任せた指導(後述)は様々な波紋を呼び議論の的となった。それでも、日本代表監督では最高の勝利数(38勝)を記録している。成績等については下の諸項目を参照のこと。
2002年
10月16日、ジャマイカに臨み、これが初試合となった。中田英寿・中村俊輔・小野伸二・稲本潤一の4人を初めて同時に起用し(黄金のカルテット)話題を呼んだが、結果は1-1の引き分け。
2003年
4月16日、ソウルワールドカップ競技場での韓国戦で初勝利を挙げる。 後半終了間際に韓国DFがクリアしたボールがFW永井雄一郎 の足にあたり、直接ゴールしたものであった。
6月8日、キリンカップ2003でのアルゼンチン戦で1-4で完敗。これを機にディフェンスライン4人を全員入れ替えた。
6月18日からのFIFAコンフェデレーションズカップ2003の予選グループ、1勝2敗の成績に終わり決勝トーナメント進出を逃した。
8月20日のナイジェリア戦でホームゲーム初勝利。
2004年
2月7日、ジーコの慣れ親しんだ鹿島にて、親善試合マレーシア戦を行う。このドイツW杯予選を控えた日本代表の鹿島合宿中に市内のキャバクラに久保竜彦、奥大介、小笠原満男、山田卓也、都築龍太、茂庭照幸、大久保嘉人、山田暢久(但し山田暢久は入店せず)が無断外出して問題起こし、スキャンダルとして取り上げられてしまい、ジーコは「信頼関係を失った」とコメント、(「裏切り行為と感じた」とも)代表チームへの一時招集を見送られることになった。
2月18日、ドイツW杯アジア1次予選初戦、オマーンと戦い、これを1-0で勝利。続くシンガポール戦も藤田俊哉の決勝点で勝利した。この内容を「苦戦」であるとした一部のサポーターが解任デモを行った。
4月に行われた欧州遠征で欧州の代表チームと相次いで親善試合を行った。初戦のハンガリー戦で敗れたものの、強豪チェコを1-0と破った。6月の欧州遠征ではイングランドと戦い小野伸二の同点ゴールで1-1のドローに持ち込んだ。
7月、中国で行われたアジアカップ2004で優勝。大会2連覇を達成した。
9月、インド コルカタでW杯大会アジア1次予選第4戦でインドに4-0で勝利、ハーフタイム中にスタジアムの照明が停電するトラブルがあった。 この時、ベンチにいたジーコは、多数の現地記者・カメラマンからサイン攻めに合う光景をテレビカメラがとらえ、インドでも、現役時代の名声が轟いていることを証明した。
10月、W杯大会アジア1次予選第5戦でオマーンに1-0で勝利、1次予選の突破を全試合勝利で決める。
2005年
W杯ドイツ大会最終予選において、テヘランでイランに敗れた試合以外は全勝。1次予選との通算成績で11勝1敗で終え、B組1位通過を果たした。この結果により、世界最速で予選を突破し本大会への出場権(開催国のドイツは除く)を獲得することになった。
2005年FIFAコンフェデレーションズカップでは1勝1敗1分。メキシコには1-2で敗れたが、ギリシャに1-0で勝利、ブラジル戦でも2-2の引き分け。グループリーグ敗退に終わったものの、試合内容に対しては一部の現地メディアでも高い評価を得た。
7月から8月にかけての東アジアサッカー選手権2005では北朝鮮に0-1で敗戦。続く中国戦ではGKを含むスタメンを総入れ替えし若手選手を起用する采配をしたが、2-2の引き分けに終わる。韓国に1-0で勝して、2位という結果で終えた。
2006年
親善試合を消化。W杯メンバー発表までの7試合は3勝2敗2分。
5月15日、ドイツW杯23人のメンバーを発表。
ジーコジャパンにおいて一番多く得点を決め(11得点)、本大会のエースとして期待された久保竜彦と、フランスリーグ・アンでアシストランク3位だった松井大輔をメンバーから外し、ドイツブンデスリーガで1得点の高原、日本Jリーグで1得点の玉田を招集したことに物議をかもした。特に久保は、2006年に行われたW杯メンバー発表前の代表戦すべてに先発出場した上での落選だったが、腰痛から復帰したばかりではあった。また、一番若い年齢の選手が駒野友一の24歳で、アテネ五輪代表メンバーからの選出は駒野・茂庭照幸の2名だけだった(茂庭の招集は田中誠の怪我による追加招集。茂庭はバカンスに入っていたハワイから緊急帰国、代表に合流した)。
6月12日、W杯本大会初戦のオーストラリア戦では残り15分で3失点を喫し1-3の逆転負け。続くクロアチア戦は0-0で引き分け、最後のブラジル戦では前半に先制するも、後半で3点を入れられ逆転され1-4の惨敗。2敗1分のグループリーグ最下位で敗退した。その後日本代表監督を予定通り退任。最後の会見で日本が取り組むべき課題として「身長差、体格差を乗り越え怪我をしないためのフィジカルトレーニングの模索」「安定した判断力の涵養」を挙げた[3]。
2006年以降 [編集]
ワールドカップ・ドイツ大会終了後に日本代表監督を退任。2006年7月4日にトルコ・シュペルリガの名門フェネルバフチェの監督に就任。2006-07シーズンは、カップ戦は取れずに終わったが、リーグ戦では序盤で首位に立ってから一度もその座を譲ることなく2007年5月13日に優勝した。
2008年に行われたUEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメントへ同クラブを初めて導いた。決勝トーナメントではセビージャFCをPK戦の末勝利し、ベスト8に進出。準々決勝では強豪チェルシーと対戦。圧倒的な不利の下馬評の中、ホームでは2-1で勝利した。しかし、続くアウェイでの試合では0-2と敗れ、ベスト4進出はならなかった。2007-08シーズンの国内リーグでは2位。シーズン終了後、任期満了に伴い延長交渉を受けたが、クラブとの条件が合わず退任。
2008シーズンはウズベキスタンの強豪チームFCブニョドコルでリーグ戦途中から指揮を執ることになった。就任直後に行われたAFCチャンピオンズリーグはアデレード・ユナイテッドFCに敗退(1勝1敗・合計スコア 1-3)したが、ウズベキスタンカップとウズベキスタンリーグはともに優勝し、二冠に輝いた。ブニョドコルとの契約期間は2009年12月までだったが、ロシアプレミアリーグのPFC CSKAモスクワがガザエフ監督の後任としてジーコに興味を示した為に、クラブとの話し合いの末、円満退団した。
2009年1月、CSKAモスクワの監督に就任。契約期間は3年間。UEFAカップ 2008-09ではラウンド16でこの大会を制覇したシャフタール・ドネツクに敗れたが、ロシア国内では3月7日のロシア・スーパーカップでFCルビン・カザンを下し優勝。5月31日のロシア・カップ決勝では同じくFCルビン・カザンを1-0で下し二冠を獲得している。2009年9月10日、CSKAモスクワの監督を成績不良を理由に解任される(首脳陣との確執があったとも伝えられている[4])。
2009年9月16日、ギリシャ・スーパーリーグのオリンピアコスFCの監督に就任した。契約年数は2年だったが、就任から4ヵ月後の2010年1月19日に解任された。クラブ側の説明では「成績不振」であったが、シーズンの大部分、ケガによって主力選手の多くが欠けていたにもかかわらず、カップ戦は敗退したものの、リーグ戦では18節を終わって12勝4分2敗で勝ち点40の2位(1位のパナシナイコスは15勝2分1敗勝ち点47、唯一の負けはオリンピアコス戦)、チャンピオンズリーグではベスト16に進出しており、ジーコ自身も自身のオフィシャルサイトにおいて解任についての信じられない思いと、クラブ側の解任手続きの唐突さに対する不満を述べた[5]。後任は前監督のボズィダル・バンドヴィッチ。
2010年1月28日、2022 FIFAワールドカップ日本開催招致アンバサダーに就任。
2010年6月にフラメンゴのテクニカルディレクターに就任したが、10月にはクラブ内での対立を理由に辞任を表明した[6][7]。
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カカの踊り
カカ(Kaká、本名:リカルド・イゼクソン・ドス・サントス・レイチ、Ricardo Izecson Dos Santos Leite、1982年4月22日 - )はブラジル、ブラジリア出身の同国代表サッカー選手。2007年2月にはイタリア国籍も取得した[1]。 ポジションは主にミッドフィールダー(オフェンシブハーフ・トップ下)だが、セカンドトップなどフォワードのポジションもこなす。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 誕生~サンパウロFC時代
1.2 ACミラン時代
1.3 レアル・マドリード時代
1.3.1 移籍を巡る騒動
1.4 代表での実績
2 人物
3 名前について
4 エピソード
5 脚注
6 個人成績
7 代表歴
8 獲得タイトル
来歴 [編集]

誕生~サンパウロFC時代 [編集]
カカはブラジルの首都ブラジリアで生まれる。父ボスコはエンジニア、母シモーネは学校の教師として家庭を支え、カカが生まれた後すぐにクイアバに移住し、7歳の時にサンパウロへ来る。彼自身が「幼い頃からサッカー以上に好きなものはなかった」と語るように、ボールを蹴ることが何よりも楽しみだったという。 父がサンパウロFCのクラブ会員だったので、9歳でサンパウロFC(ブラジル)のクラブ会員用のチームに加入。当時から技術面では優れたものをもっていたが、他の子たちに比べて線が細く、補欠に甘んじていた。その後クラブでのトレーニングの成果でビルドアップに成功、弱点を克服した。トップチームデビューは2001年2月のボダフォゴ戦。途中出場ながら2得点を決める活躍を見せると、以降サンパウロFCのトップチームに定着する。
ACミラン時代 [編集]
2003年、850万ユーロ(約12億円)の移籍金でセリエA・ACミランへ移籍。移籍初年度、当初はチームのトップ下ポジションにいるマヌエル・ルイ・コスタ、クラレンス・セードルフ、リバウドらのバックアッパーとしての働きを期待されていたが、開幕戦から驚異的な活躍をみせ、リーグ戦2試合目にして完全にスタメンの座を確立。移籍初年度にはセリエAで30試合に出場し、チームのスクデット、UEFAスーパーカップ獲得に大きく貢献した。


ミランでのカカ(2007年)
2006-2007シーズンは、UEFAチャンピオンズリーグにて10得点を決めブラジル人としてはリバウド以来の得点王となり、ビッグイヤー獲得(UEFAチャンピオンズリーグ優勝)の原動力となった。また、FIFAクラブワールドカップ2007では1得点3アシストの大活躍を見せ、大会MVPに輝くと共に、欧州勢として初となるクラブW杯優勝、ミランとして1990年トヨタカップ以来4度目となる世界一に導いた。これらの活躍を評価され、2007年はバロンドール、FIFA年間最優秀選手賞、FIFPro年間最優秀選手賞、英誌ワールドサッカー選出世界年間最優秀選手賞(いずれも初受賞)と4つの栄誉を手にすることになった。
レアル・マドリード時代 [編集]


レアル・マドリードでのカカ(2009年)
かねてから本人のACミラン残留希望とは裏腹に、移籍の噂が絶えないカカであったが、2009年、フロレンティーノ・ペレスが会長に復帰したレアル・マドリードの最初の新加入選手として移籍金6800万ユーロ(約100億円)の7年契約で移籍。入団発表では5万人のサポーターがエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウに集まった。親善試合のトロントFC戦でレアル・マドリードでのデビューを飾り、ボルシア・ドルトムント戦で初ゴールを決めた。2009年9月23日、ビジャレアルCF戦でペナルティーキックからレアル・マドリードでの公式戦初ゴールを記録した。しかし、恥骨炎の影響もあってか、かつてのような活躍は出来ておらず[2]、goal.comからその年のリーガワースト移籍ランキングで10位に選ばれてしまった[3]。2010 FIFAワールドカップ後には半月板の手術を行い、4ヵ月程度の離脱が発表された[4]。
移籍を巡る騒動 [編集]
ACミラン時代、移籍市場では毎年のように移籍が噂され、その度に大きな話題を集めた。
ACミランとは当初2009年6月までの契約であったが、2005-2006シーズン終了後にはACミランの八百長疑惑によりクラブのセリエB降格の危機が報じられ、カカのもとにも複数のクラブから移籍のオファーが舞い込んだ。FAプレミアリーグ・チェルシーFCからは7000万ポンド(約152億6000万円)という超破格のオファーが来たが、ミラン側が首を縦に振らなかった。このとき本人も「ACミランが降格しないなら、クラブに忠誠を誓う」と発言。その後2006年7月15日にミランは降格を免れる判決を下された。当時チェルシーの監督であったジョゼ・モウリーニョからは「世界の中で自由に選手を獲得できるとしたらカカを選ぶ」と言われ、レアル・マドリードのラモン・カルデロン会長はカカの獲得を公約に掲げるなど、世界中のサッカー関係者からの高い評価を集めた。
2007年、レアル・マドリードから8000万ユーロ(約130億円)の移籍金と手取り1200万ユーロ(約20億円)のオファーがあったが、それでも移籍しなかった。また、レアル・マドリードへの移籍報道に関して、本人は「レアルは僕が欲しいなら、ベルルスコーニ会長の首を縦に振らせればいい」と言っている。
2009年1月、FAプレミアリーグのマンチェスター・シティFCがカカ獲得にサッカー界史上最高額の移籍金1億ユーロ(約120億円)以上ともいわれる移籍金をミランに提示したことによる移籍騒動が勃発。カカにも年俸1500万ユーロ(約20億円)を提示[5]し、ミランもカカの移籍を容認(実際は説得)したものの、本人は残留を希望し、同月19日、ミランに残留することが決まった[6]。また、多くのサポーターは移籍に大反対し、中にはカカの自宅周辺などに集結したサポーターもおり、カカは窓からユニホームを掲げ、笑顔で応えた。


レアル・マドリード入団発表におけるカカ(2009年6月30日)
しかし、2009年6月9日の00:00(現地時間)丁度にレアル・マドリード入団が発表された。移籍金は6800万ユーロ(約94億円)で、2001年、ジネディーヌ・ジダンが同じくレアル・マドリードに移籍したときの7696万ユーロ(約103億円)に次いで当時史上2番目の高額移籍となった[7][8]。紆余曲折の末の移籍であり、カカ本人はこの移籍について会見で「(裏口ではなく)玄関から去る」と語った[9]。また、レシフェで行われた会見では、あくまで最高の形はミランへの残留であったとしながらも、移籍は財政難に苦しむミランのことを思えばこそであり、移籍をするのであればレアル・マドリードしかないと語った[10]。
代表での実績 [編集]
2002年には2002 FIFAワールドカップのメンバーにも選ばれ、出場機会は少ないながらも優勝を経験した。
2006 FIFAワールドカップではロナウジーニョ、ロナウド、アドリアーノとともにカルテット・マジコ(「魔法の4人」)を形成し世界中で話題となった。しかしチームは機能せず、個々の選手がバラバラに活躍するのみで圧倒的な優勝候補といわれた前評判を見せられぬまま、準々決勝でフランスに敗れベスト8で敗退した。
FIFAコンフェデレーションズカップ2009では背番号10を背負い、ブラジルの優勝に貢献すると共に大会最優秀選手(ゴールデンボール)に輝いた。
2010 FIFAワールドカップでは、前回大会のカルテット・マジコから唯一代表に選出された。しかし、結果は前回大会と同じベスト8でオランダ代表に逆転負けを喫し、カカは大会アシスト王となるも無得点に終わった。
人物 [編集]



カカとルーラ。手にはI BELONG TO JESUSと書かれたシャツを持っている
ブラジル人サッカー選手に多い貧困層出身ではなく、どちらかというと中流階級の育ちであるが、その事を鼻にかけたりせず誰とでも気さくに付き合うようで人間的にも評価が高くチームメイトの信頼も厚い。彼自身、白人であるが人種の坩堝であるブラジル育ちということもあり黒人や黄色人種への人種差別には強固に反対し発言もしている。しかし、2008-2009シーズンはクラブにおいて監督の戦術などを批判することもあった[11]。
プロテスタントのクリスチャンであり、特に敬虔なクリスチャンとして知られている。愛読書は聖書、好きな音楽はゴスペル、座右の銘は聖書の言葉の「神に忠実なれ」。ゴールを決めた後に「私はイエスのもの」という意味の「I BELONG TO JESUS」という文字が書かれたシャツを見せたことがあるほか、The Prizeというクリスチャンのサッカー選手の話を集めたDVDに出演[12]した際に、「SEXは結婚してからの祝福」と発言し、結婚するまで童貞だった事も告白している。
名前について [編集]

「カカ(Kaká)」という名前は、幼い弟が本名の「リカルド」を発音できずに「カカ」と呼んでいたことに由来する[13]。そのため何の意味も込められたものではない。しかし、イタリアやポルトガルなどのラテン語圏において、「カカ」と言う呼び名は発音によっては汚物(CACCA)を意味するため、ACミランへ移籍する際は愛称を変えなくてはならないというような議論もされたらしく、またミランより先にオファーしていたユヴェントスがこのような理由で獲得を断念したという。「Kaká」は2番目の「á」にアクセントをつけて発音するため、「カ(ッ)カァ」という感じで聞こえることが多い。なお、イタリア語などでは、そのアクセントの表記法に従いKakàとなることがある。なお、ミランでは「リッキー」という愛称で呼ばれていたとのこと。
エピソード [編集]



カカと妻のカロリーネ
18歳の時、プールで遊んでいた際に頭部を強打し頸椎を損傷する重傷を負い、あわや下半身不随寸前の怪我だったものの、極度の近視となった以外は幸いにも運動能力にはほとんど影響は見られなかった。また、事故からわずか4ヶ月後にはサンパウロFCのトップチームデビューを果たしている。試合中はコンタクトレンズを使用し、普段は度の強いメガネをしていたが、2007年6月に極秘でレーシック手術を受けた模様。なお、本人は「あの事故を契機に人生観が変わった」と語っている[13]。
用具等はアディダス社と契約している。
実弟のロドリゴも2005年にACミランへ入団、ジゴン(Digão)の名で選手登録されている。ジゴンは2007年夏にレンタル終了でミランに復帰し、兄と共にプレーしていた。
ACミランからの移籍金は自分の取り分も含めて全額をサンパウロFCへお世話になったお礼にと渡してしまった。これを知ったミラン経営陣は感激してもう一度カカの取り分を支払った。
サンパウロFCでは背番号8番を、2002 FIFAワールドカップでは背番号23番をそれぞれ着けていたが、ミランでは既にジェンナーロ・ガットゥーゾ、マッシモ・アンブロジーニがそれぞれの番号を着けていたため、自身の誕生日の日付にちなんで22番を背負うことになった[13]。また、レアル・マドリードでは当初、かつてジネディーヌ・ジダンが着けていた5番を着けることが噂されたものの、最終的には本人の希望で8番を背負うことになった。
2004-2005シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝戦におけるリバプールFC戦の敗北(イスタンブールの悲劇)について、「たとえこの先何度優勝できたとしてもあの敗北を忘れることは出来ない」と語っている[13]。
サンパウロFCに所属していた17歳の頃、クラブの深刻な財政難からトルコのクラブ、もしくはCSKAモスクワに売却されそうになった。だが本人は「あの時に移籍していても今のように素晴らしいキャリアを築くのは難しかっただろう」と語っている[13]。
2005年12月、長年の遠距離恋愛をへて5つ下のブラジル人女性カロリーネ・セリコと母国ブラジルにて結婚した。彼女の母親はブラジルのディオール支社の幹部。2008年6月10日、長男ルーカが誕生。
カカにとってのアイドルは、ブラジル代表やサンパウロFCなどでプレーしたライー[13]。
呂比須ワグナーとは仲がよく、オフの時はゴルフに行く。
無人島に3つ物を持っていくとすればサッカーボール、聖書、iPodを持っていきたいと語っている。
「もがみ国際交流協会」を通した、サンパウロFCのジュニアチームと地元少年サッカー少年団との国際親善試合の第1回の招待チームの一員として1993年10月に訪日。山形県最上町に滞在したことがある[14]。当時11歳だったカカは、この試合で最優秀選手に選ばれ、賞金5千円を獲得[15]。このお金は、「初めてのギャラだ」としてブラジルの実家で大切に保管してあるとのこと。またこのときホームステイした家庭及び協会の事務局長を務めた人物とは今もなお親交があり、カカのことを「日本人以上に律儀な子」と語っているほか、FIFAクラブワールドカップ2007出場のため来日した際には2007年12月6日に放送された同大会の特番の番組内で再会を果たしている。なお、事務局長夫婦とのその後の交流を描いた物語が、「日本のお父さん、お母さん」というタイトルで平成20年度の日本の小学校の道徳の教科書に掲載された。
FIFAクラブワールドカップ2007出場のため来日していた2007年12月8日、パオロ・マルディーニやカフー、クラレンス・セードルフらACミランのチームメイト及びスタッフと共に横浜アリーナで開催されたK-1 WORLD GP 2007 FINALの観戦に訪れ、同大会の中継でも観戦している様子が流された。
FIFAクラブワールドカップ2007の大会MVP受賞で獲得した賞金約2050万円(12万8000ユーロ)を、ACミランが運営する基金に全額寄付した[16]。
2008年5月、アメリカのタイム誌による「世界で最も影響力のある100人」に選出された。アメリカという決してサッカー人気が高いとは言えない国による選出には本人も大変感動し、それと同時に正しい価値観を伝えていく責任や義務も感じたという。尚、この100人の中で彼は唯一のサッカー選手である。また、2009年にも同じく選出された。
2010年5月28日に配信された週刊トロ・ステーション第三十号にビデオレターで出演(PlaystationとVAIOの連携によるワールドカップ企画のプロモーションの為)。「トロ・ステーションを見ているみんな こんにちは!カカです。」と挨拶した。
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