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「平成」の元号を公式発表した際に使用された平成の文字を墨書した半紙を記念品として所蔵しており、20世紀末年になってバラエティ番組で所有の事実を公表した(番組に出演はせず、会場とは電話でのやりとりをしたのみであった。電話応対の声は年齢を感じさせぬほど大きく、現役当時と変わらず言語明瞭であった、その後、再びバラエティ番組で映像で映された)。現在は、孫のDAIGOがうたばんやめちゃ×2イケてるッ!などに出演した際に持ち込んでいる。
消費税導入の決断を彼に迫ったのは西部邁であった。赤坂の料亭で彼と会談した際、西部に「腹をくくれ」と導入の決断を迫られ、「わかった」と滂沱の涙を流しながら答えたという。[10] 書道を趣味とした。 昭和から平成になったときの首相であることはあまりにも有名だが、大正から昭和になったときの首相若槻禮次郎も島根県出身である。 昭和天皇が1988年9月19日に吐血し、崩御するまでの最後の3ヶ月の間、竹下は好きなゴルフを断ち、いつでも緊急事態に対応できるようにと皇居から30分以内の場所にしか外出しなかったことを妻の直子と次女(DAIGOの母)が証言している[11]。 その影響力から、島根県を「竹下王国」と比喩されることがある。竹下本人の死後は、青木幹雄にちなんで「青木王国」とも。小沢一郎の地元である岩手県が、いわゆる「小沢王国」と呼ばれるのも、これに関連する。2007年の参議院選挙で、景山俊太郎が落選したことにより、自民党がすべて占めていた島根県の衆参の議席の一角が崩れることになった。 孫の影木栄貴いわく「政治オタク」で、孫達にも何かにつけ長々と政治や行政の話をして聞かせ、最後の入院生活で容態が徐々に悪化していく中でも税制や選挙の話を喋り続けていた程だったという。[12] 毎年娘達とその家族を富士の裾野に持っていた別荘に呼び寄せて過ごし、長いときには1ヶ月近く孫達を滞在させていた。孫達には「周りの人にいつも感謝しなきゃいかん」が口癖だったという。[13]この別荘には安倍晋三なども訪れたことがある。竹下の出世に伴い警備が厳しくなり孫達も思うように別荘の周辺で遊べなくなったため、孫の1人である影木栄貴は当時日記でぼやいていたという。[14] 自宅には麻雀ルームがあり、麻雀を趣味としていた。政界の著名人を集め、よく打っていたようである。妻と一緒に麻雀を打っていた際、妻が天和を出し、記念にみんなで色紙にサインをした。その時に打っていた面子は竹下、妻、小渕恵三、川内康範である。 血液型はB型。 略歴 [編集] 学歴 [編集] 1941年(昭和16年) - 島根県立松江中学校卒業 1942年(昭和17年) - 第一早稲田高等学院入学 1947年(昭和22年) - 早稲田大学第一商学部卒業 政歴 [編集] 1951年(昭和26年) - 島根県議会議員選挙に初出馬して当選。 1958年(昭和33年) - 第28回衆議院議員総選挙に出馬し、島根全県区でトップ当選。 1964年(昭和39年) - 内閣官房副長官(第1次佐藤内閣、第1次佐藤第1次改造内閣、1966年7月まで) 1971年(昭和46年) - 内閣官房長官(第3次佐藤改造内閣、1972年7月まで) 1974年(昭和49年) - 内閣官房長官(第2次田中角榮第2次改造内閣、1974年12月まで) 1976年(昭和51年) - 建設大臣(三木内閣、1976年9月まで) 1978年(昭和53年) - 衆議院予算委員長(第87回国会) 1979年(昭和54年) - 大蔵大臣(第2次大平内閣、1980年7月まで) 1982年(昭和57年) - 大蔵大臣(第1次中曾根内閣、第2次中曾根内閣、第2次中曾根第1次改造内閣、第2次中曾根第2次改造内閣、1986年7月まで) 1985年(昭和60年) - プラザ合意 1986年(昭和61年) - 自由民主党幹事長(1987年10月まで) 1987年(昭和62年) 7月4日 - 経世会(竹下派)旗揚げ 11月6日 - 第74代内閣総理大臣となる(1989年6月3日まで) 1988年(昭和63年) - 大蔵大臣(竹下内閣、1988年12月まで) 1989年(平成元年) - 6月3日 内閣総辞職 1992年(平成4年) - 経世会分裂 1999年(平成11年) - 4月、変形性脊椎症のため入院。 2000年(平成12年) 5月1日 - 入院中の病院より政界引退を表明。 6月19日 - 呼吸不全のため北里研究所病院にて死去。墓所は島根県雲南市掛合町掛合の竹下家墓地。 受賞歴 [編集] 1994年(平成6年)8月23日:中国人民大学より名誉博士号を授与された。 栄典 [編集] 2000年(平成12年)6月20日:正二位 2000年(平成12年)6月20日:大勲位菊花大綬章 家族・親族 [編集] 実家 父・勇造(酒造業、政治家) 島根県出雲市今市町出身。印刷業を営む武永(たけなが)家から竹下家に婿養子に入った。実兄の武永貞一は武永明文舎印刷工場経営主であり、大正14年(1925年)より昭和30年(1955年)まで今市町議から出雲市議を連続つとめ、また同商工会議所会頭等を歴任した[15]。 勇造は、妻唯子を失った寂しさからか、何かと政江に“干渉”したという。竹下後援会の「きさらぎ会」の元幹部によれば、「勇造さんは、敗戦を意識して自暴自棄になっていたのかもしれないが、その執拗な“干渉”は、毎夜のように政江さんを悩ましていました。政江さんは、ノイローゼ状態となり、睡眠薬を手放せなくなっていたのです」という[16]。 岩瀬達哉著『われ万死に値す―ドキュメント竹下登』69頁によると、竹下家関係者は勇造について「勇造さんは、いまでいう“逆玉”ですわ。家つきの娘と結婚して、気楽な生活を楽しんでました。家業の酒造りは、奥さんと番頭さんにまかせっきりで、政治談議をはじめると尽きることがない。ですから、朝はいつも11時前には起きてきたことがない。“まだ寝ちょって起きない”といってよく起こしたものです」と述べている。 実母・唯子 1945年(昭和20年)3月、41歳の若さで京都の病院で死亡[17] 神一行著 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』186頁によれば「たいへん進歩的な人だったようで、当時、松江中学の教師をしていたマルキストの福本和夫の影響を強く受け、先祖代々つたわっていた“日の出正宗”という酒の名前を“大衆”という名に変えてしまい、二級酒しか造らせなかったという人である。“人のために生きろ”というのが口癖で、竹下もその薫陶を受けて育った。幼少の頃から政治的環境にあったというべきだろう」という。 異母弟・三郎 現在株式会社「竹下本店」代表取締役社長[18] 異母弟・亘 NHK記者から登の秘書となり、登の引退後、地盤を継ぎ政治家となった。 異母妹(医師に嫁ぐ)[19] 自家 前妻・政江(旧姓竹内) 後妻・直子(島根県、銀行員遠藤捨次郎の娘) 岩瀬達哉の著書 『われ万死に値す—ドキュメント竹下登』28ページによれば、「直子は、竹下家とは親戚筋にあたる遠藤捨次郎、周子を両親に大正十五年九月に出生。両親はともに島根県人だったが、銀行員だった父の任地の関係で、直子自身はほとんど東京で暮らしている。島根には、学生の頃、“夏休みなどにおじいちゃん、おばあちゃんのところに帰るぐらい”だったと、雑誌の対談で語っているが、実は、戦時中竹下家に疎開していたことがあった。竹下の父・勇造の兄と、直子の母・周子の姉が結婚していることもあって、竹下が早稲田大学第一高等学院の受験に上京したときは、直子の家に泊まるなど、両家の交流は比較的頻繁に行われていた。」という。 長女・一子(山梨県、政治家金丸信の長男康信の妻) 結婚について、神一行著 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』191頁によれば、「この結婚話を持ってきたのは佐藤栄作夫人の寛子だった。康信が早大卒業後、NHKの放送記者をしているころだ。一度の見合いで話は即座に決まった。」という。晩年の金丸信の介護を献身的に務めていた。 現在は山梨県南アルプス市の特別擁護老人ホーム「白根聖明園」の施設長を務める。[20] 次女・まる子(毎日新聞政治部記者を経て竹下の秘書を務めた内藤武宣[21]の妻) 三女・公子(竹中工務店創業者一族で同グループ内のTKリアルティ専務取締役に就いた竹中祐二の妻) 現在はゴルフグッズなどの販売会社「株式会社たけみ会」代表取締役。[22] 他家 次女まる子の娘にあたる漫画家の影木栄貴と、その弟でミュージシャンのDAIGO(内藤大湖、BREAKERZ)は孫。竹下の初孫にあたる長女一子の娘はかつて「幽木遊貴」のPNで従妹の影木と同人誌活動を行っていた。他に一般人の孫(男子)が2名。 同じ島根県出身の加藤辨三郎(元協和発酵会長)は遠縁にあたり、「おじさん」「登」と呼びあっていたという[23]。 系譜 [編集] 竹下家 岩瀬達哉『われ万死に値す—ドキュメント竹下登』 71、74、75頁によれば、 「江戸時代、竹下家は奥出雲の山林大地主田部家傘下で庄屋(現在の村長)を務めた関係から、慶応2年(1866年)酒造りの権利である「酒座」を同家から譲り受けた[24]。戦前の竹下家は「田部家の“中番頭”」ではあったものの、掛合地区では圧倒的な権勢を誇っていた。戦後の農地解放で、竹下家が手放した農地と山林は、『掛合町誌』によれば合計約五百六十九反(十七万七百坪)に上っている。これは、掛合地区で3番目に多く農地と山林を手放した地主であった。 祖父・儀造は、第二十八区掛合村戸長を長く務め、明治22年(1889年)から大正14年(1925年)まで掛合村の村会議員だった。 父・勇造は、昭和16年(1941年)掛合村の名誉村長を務め、昭和17年(1942年)島根県議会議員となった。戦後公職追放が解かれた後、掛合町の教育委員長を17年にわたって務めた。」 |
内閣総理大臣 [編集]
1988年、トロントサミットに出席 訪米時に政府専用機として使用された日本航空のマクドネル・ダグラスDC-10型機から降機する竹下と妻・直子 昭和最後の総理大臣 [編集] 経世会を結成した1987年の11月に、中曽根康弘首相の裁定により安倍晋太郎、宮澤喜一の2人を抑え第12代自民党総裁、第74代内閣総理大臣に就任した。 首相としては初の地方議会議員出身者で、同時に初の自民党生え抜き(初当選は、保守合同後初の総選挙:1958年5月)であった。また竹下は昭和最後の総理大臣でもあった(奇しくも大正から昭和にかけての総理は、同じ出雲出身の若槻禮次郎)。 首相時代の答弁は「言語明瞭・意味不明瞭」と評され、回りくどい表現が多いことで有名だった。 主な施策と事件 [編集] 全国の市町村に対し1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)にかけて地方交付税として一律1億円を支給するふるさと創生事業を実施した。 1988年、野党や世論に強硬な反対意見が多かった税制改革関連法案を強行採決で可決し、日本初の付加価値税である消費税を導入した。 日米貿易摩擦の懸案の一つだった牛肉・オレンジについて、日米間の協議で輸入自由化することで合意した。 1988年にリクルート事件が発覚し、政治不信が高まった。竹下自身の疑惑も追及され、秘書で竹下の金庫番といわれた青木伊平が1989年4月26日に自殺している。 現職首相として靖国神社に参拝しなかったのは石橋湛山以来。 退陣 [編集] こうした状況のなか世論の反発を受け、支持率がついに3.9%に落ち込むまでに至り、財界も石原俊らが公然と竹下の退陣を迫り、1989年6月3日に内閣総辞職に追い込まれた。内閣総辞職直前には竹下登邸周辺でデモも起きた。この竹下邸は旧佐藤栄作邸である。 総理大臣退任後 [編集] 首相辞職後も表向きは「玉拾いに徹する。」と言いつつも宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一という歴代の内閣誕生に関与するなど、政権に強い影響力を持っていた。しかし、1992年(平成4年)に東京佐川急便事件が発覚。1987年の総裁指名に関連したほめ殺しで知られる皇民党事件が報道されるなど、ますます政界不信が高まり自民党支持が減る原因となった。 1992年10月、東京佐川急便からの5億円闇献金事件の責任を負って金丸信が議員辞職、竹下派会長辞任に追いこまれると、後継会長に小渕恵三を推す派閥オーナーの竹下と、羽田孜を推す会長代行の小沢一郎の主導権争いは激しくなった。竹下は中立を守っていた参議院竹下派に対する多数派工作などを行い、小渕を強引な形で後継会長に据えた。これに反発した小沢、羽田らが新派閥・改革フォーラム21を結成、竹下派は分裂状態となった。この派閥は1993年(平成5年)6月に自民党から離脱し、新生党となった。そして同年7月18日の総選挙で自民党は過半数割れし、新生党、社会党、日本新党など非自民8党連立による細川内閣が誕生。 自民党は1994年(平成6年)の社会党との連立による村山内閣発足を機に政権に復帰。村山内閣誕生に竹下も深く関与したことから再び隠然たる影響力を持つようになり、村山内閣後は竹下派出身者による橋本内閣、小渕内閣を実現させた。 竹下は、1999年(平成11年)4月から体調不良のため北里研究所病院に入院、表舞台にでることは少なくなった。かわって、竹下と同じ島根県出身で「竹下の黒子」といわれていた参議院議員・青木幹雄が政界の実力者として取り上げられることが多くなった。容態は次第に悪化し、4月に小渕が倒れたとの一報を聞いたことも手伝い、引退を決意する[7]。 そして2000年(平成12年)5月1日、病床で録音した竹下の引退宣言のテープを、当時の竹下派の最高幹部たちが本人不在のなかで記者会見において発表した。そこで次回の衆議院議員選挙に立候補しないことを表明し、政界からの引退を宣言した。引退表明後は議員でなくなったことで気力が失われたのか急激に弱っていったという[8]。 第42回総選挙期間中の2000年6月19日、北里研究所病院にて膵臓癌、発表では脊椎変形症による呼吸不全のため死去、76歳没。法名は顕政院釋登涯。選挙区地盤を譲られた異母弟の竹下亘は錦織淳らを退け当選している。 人物像 [編集] 初当選した衆院選の公示日に出雲市の目抜き通りで「島根に生まれ、島根に育ち、やがて島根の土になる」と第一声を上げた。 口癖は「~だわな」。これは出身地の方言(出雲弁)の影響である。 国会答弁などでは、はきはきと発言するが文章全体の意味がつかめないという、言語明瞭、意味不明瞭な竹下語を駆使し、野党に言質を与えることがなかった。 竹下の秘書出身で、後に参議院のドンと呼ばれる青木幹雄にもこの傾向があるとされる。 「気配り・目配り・金配りで総理になった」と揶揄されるほど敵を作らない性格であり、政財界に幅広い人脈を持っていた。他派閥では安倍晋太郎、宇野宗佑、海部俊樹、藤波孝生、河野洋平、三塚博、武村正義、野党では村山富市、山口鶴男、矢野絢也、塚本三郎などと交流があった。「反経世会」を掲げる小泉純一郎(後に首相)とも大蔵大臣-大蔵政務次官としてコンビを組んだ間柄であり、悪い関係ではなかったようだ。とはいえ「竹下さんの頃の早稲田は無試験だったんですってねえ」など、学歴関係で馬鹿にしてきた宮澤喜一には、さすがに我慢ならなかったようである。 清和会に所属していた作家石原慎太郎(竹下内閣で運輸大臣)も、(回顧録ほかの)独自の文章表現で、政治的な天才と評している。なお石原は、宮澤を最も毛嫌いしていた。 1988年、消費税導入が可決されるとリクルート事件の影響もあって国民から厳しい批判を浴び、内閣支持率は史上最低に落ち込んだ。しかし竹下は「消費税を導入したことは後世の歴史家が評価してくれる」と語った。実際、現在において竹下内閣の最大の功績は大平、中曽根両内閣が実現できなかった消費税導入を実現した事とする見方が一般的である。 自社さ連立政権で行政要職経験もなく突然不慣れな内閣総理大臣の職を務めた村山富市にとって、同い年の竹下は党派を超えて「良き相談相手」だったことを語っている[9] (竹下は1924年(大正13年)2月26日生まれ、村山は同年3月3日生まれと1週間しか誕生日が離れていない)。 元 社会民主党、衆議院議員の辻元清美は、これまでで一番面白いと思った政治家は誰かの質問に真っ先に竹下の名前を挙げている。 佐藤政権時代、ズンドコ節の替え歌を作り「講和の条約吉田で暮れて 日ソ協定鳩山さんで 今じゃ佐藤で沖縄返還 10年たったら竹下さん トコズンドコ ズンドコ」と宴席で歌っていた。 経世会の議員は中選挙区時代に自民党同士の争いになった場合でも落選することが少なかった。「選挙上手」が多いことで知られていたが、これは竹下の選挙戦略を用いていたため、といわれる。竹下自身「私の専門は選挙学」と言い、周囲から「選挙の神様」と呼ばれていた。 総理就任後、2週間も経たないうちに首相官邸にて右翼団体幹部と面会し、一部からはその見識を問う声が上がった。 長年田中派の後継者と見られていながら、頭を抑えられ耐え忍んでいたため、当時NHKで放送されていたドラマになぞらえておしんと呼ばれていたこともあった。 孫の影木栄貴、DAIGOや妻の直子によると、総理に就任し帰宅した時の一声は「アイムソーリ、ボクソーリ」で、この台詞がお気に入りだったという。 後藤謙次によれば、孫のDAIGOが髪を青く染めた時、竹下は「おい後藤、ロックってのは髪を青くしなきゃ出来ないのか」と尋ねたという。 絶対に人の悪口を言わないことで有名だった。また、「石橋どころか二重橋でも叩いて渡る」といわれたほどの異常な慎重さでも知られる。 他人を絶対怒らないことでも有名。航空隊員として出征した竹下は、当時すでに結婚していたが、基地を訪ねてきた妻・政江を痛罵した。しかしそれにショックを受けた政江は、島根に帰った後自殺してしまう。このことがトラウマになった竹下は、以後他人を叱れなくなったという。また、出征中に政江が妻を亡くしたばかりの竹下の実の父親勇造と肉体関係を持たされていたことが自殺の背景にあったとの噂がその後の竹下をさらに苦しめることになる。後日竹下の父親も戦死した軍医の未亡人と再婚し、後妻との間に異母弟である亘と三郎と一女が生まれる。 リクルート事件もあって首相在任中は、週刊誌を中心に金権政治批判を受けていたが、週刊誌を告訴するよう迫った側近に対し、「権力者というものはそういうことをすべきではない」と側近をたしなめた。 死後、元韓国大統領・金泳三が早稲田大学で行った講演の中で、日韓共催サッカーW杯の発案者が竹下であることを明らかにした。 |
賞賛と挫折
初の大役となったブロードウェイの舞台『ピクニック』での演技が映画関係者から高い評価を受け、ワーナー・ブラザーズと5年間の専属契約を交わす。アクターズ・スタジオに同期で入学したディーンが主役を演じた『エデンの東』では当初主人公の兄を演じる予定でスクリーン・テストまで行ったものの、監督のエリア・カザンがニューマンの出演を却下。1954年に『銀の盃』でスクリーンデビューを果たすものの、作品自体が映画評論家から失敗作の烙印を押されるという不本意なデビューとなった。ディーンとブランドがそれぞれ『エデンの東』『波止場』で世界的トップスターへと上り詰める一方でポールは満足のいく作品に出演できないうえ、スタジオや批評家から「第2のマーロン・ブランド」と称されることに失望し映画を離れ活動の拠点を舞台とテレビドラマへ移した。 |