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【2024/10/06 16:21 】 |
浜崎あゆみ
├─≠ョ─ヵラス 妻は元女優のサエコ。弟が2人おり末弟は俳優のKENTA。

├─≠ョ─ヵラス 父が枕元に野球とバスケットとサッカーのボールを並べる

├─≠ョ─ヵラス 最初に手に取ったのが野球のボールだった

├─≠ョ─ヵラス 父はサッカー選手であった

├─≠ョ─ヵラス サッカーのボールも蹴って渡したがそれも投げた

├─≠ョ─ヵラス 小学校2年生から本格的に野球を始め

├─≠ョ─ヵラス 50以上の高校からスカウトがあった

├─≠ョ─ヵラス 環境面等を理由に東北高等学校に入学する

├─≠ョ─ヵラス 甲子園では既に女性ファンの注目を集めていた

├─≠ョ─ヵラス 1年生秋からエースに就き

├─≠ョ─ヵラス 195cmの長身から繰り出す速球

├─≠ョ─ヵラス 高校生No.1ピッチャーとの呼び声もあった

├─≠ョ─ヵラス 高野連より厳重注意処分を受けた

├─≠ョ─ヵラス 日本ハムがダルビッシュを単独1位指名

├─≠ョ─ヵラス 2004年ドラフト指名選手の中で最後に仮契約を結んだ

├─≠ョ─ヵラス 春季キャンプは二軍スタートとなった

├─≠ョ─ヵラス 社会貢献活動を命じる処分を言い渡した

├─≠ョ─ヵラス 本人を停学処分とした

├─≠ョ─ヵラス イースタンで初登板しその後完封勝利も記録

├─≠ョ─ヵラス それ以降先発ローテーションに定着

├─≠ョ─ヵラス 年俸は倍増の3000万円で一発サインした

├─≠ョ─ヵラス 開幕当初は不振であった

├─≠ョ─ヵラス 自身公式戦10連勝を記録

├─≠ョ─ヵラス 7回1失点の好投でチームを勝利に導いた

├─≠ョ─ヵラス 11奪三振1失点完投で勝利

├─≠ョ─ヵラス この活躍により日本シリーズ優秀選手賞を受賞した

├─≠ョ─ヵラス チームの新エースへと成長した

├─≠ョ─ヵラス ダルビッシュ登板時の捕手はほぼ鶴岡で固定されていた

├─≠ョ─ヵラス 初の開幕投手を務めた

├─≠ョ─ヵラス 女優・サエコとの結婚を報告した

├─≠ョ─ヵラス 最多奪三振、ゴールデングラブ賞・ベストナインのタイトルを獲得

├─≠ョ─ヵラス パ・リーグシーズンMVPに選出

├─≠ョ─ヵラス 北京オリンピック代表のエースにも指名された

├─≠ョ─ヵラス 2年連続で中日ドラゴンズと対決した

├─≠ョ─ヵラス 川上憲伸との投げ合いを制し勝利投手となった

├─≠ョ─ヵラス 史上最年少の2億円プレーヤーとなった

├─≠ョ─ヵラス 岩隈久志とタイトル争いを繰り広げた

├─≠ョ─ヵラス 初戦キューバ戦のマウンドを託された

├─≠ョ─ヵラス 千葉ロッテとの激しい3位争いを制する原動力になった

├─≠ョ─ヵラス この年は主要タイトルこそ獲得できなかった

├─≠ョ─ヵラス 防御率も2年連続の1点台を記録した

├─≠ョ─ヵラス 日本シリーズを含むポストシーズン史上最多となった

├─≠ョ─ヵラス 西武打線の内角をえぐるツーシームを多投

├─≠ョ─ヵラス プロ5年目としては球界史上最高額となった

├─≠ョ─ヵラス 先発3本柱として原監督から指名される

├─≠ョ─ヵラス シーズンでは3年連続開幕投手として岩隈との投げ合った

├─≠ョ─ヵラス 初めて岩隈に敗れてしまった

├─≠ョ─ヵラス 校出の選手としては松坂の111試合をしのぐ最速記録であった

├─≠ョ─ヵラス 肩の張りが出やすい状態であった

├─≠ョ─ヵラス 怪我の箇所に負担がかからぬ

├─≠ョ─ヵラス キャッチボールのような投球フォームであった

├─≠ョ─ヵラス 今の状態では出来過ぎ以上

├─≠ョ─ヵラス 一世一代の投球ができた

├─≠ョ─ヵラス 右手人さし指を疲労骨折していた事が判明した

├─≠ョ─ヵラス 巨人打線を抑えて勝ち投手となった

├─≠ョ─ヵラス ベストナインとMVPを受賞した

├─≠ョ─ヵラス 史上最年少の3億円プレーヤーとなった

├─≠ョ─ヵラス 自ら培ってきた技術を日本球界に還元したい

├─≠ョ─ヵラス 5試合連続で二桁奪三振

├─≠ョ─ヵラス シーズンを通して安定したピッチングをした

├─≠ョ─ヵラス 投球回数200イニングを達成した

├─≠ョ─ヵラス ダルビッシュはプロ野球で初めて同球種を投げた投手である

├─≠ョ─ヵラス オールスターゲームでは打者の手元で浮き上がるカットボールを投げた

├─≠ョ─ヵラス 千葉マリンスタジアムでは制球に苦しむことが多い

├─≠ョ─ヵラス 独自の調整法を採用している

├─≠ョ─ヵラス 素行の悪さ・プロ意識の低さも目立った

├─≠ョ─ヵラス 事からトレーニング内容まで自己管理している

├─≠ョ─ヵラス 球界関係者が実力的に現役最高の投手と認めている

├─≠ョ─ヵラス 総合力でナンバーワンの投手

├─≠ョ─ヵラス 「ダルビッシュ軍団」を結成している

├─≠ョ─ヵラス 涌井と練習の時やプライベートの時もいつも一緒に行動していた

├─≠ョ─ヵラス 元大阪のホテルで行われた「励ます会」に出席

├─≠ョ─ヵラス マイクロバス購入のため200万円を寄付した

├─≠ョ─ヵラス 開発途上国への水の支援を行う

├─≠ョ─ヵラス 「ダルビッシュ有 水基金」を設立

├─≠ョ─ヵラス 10万円を日本水フォーラムに寄付している

├─≠ョ─ヵラス 故郷への恩返しのため、グラウンドの建設費用を出したい

├─≠ョ─ヵラス 5月下旬に300万円の義援金を送った

├─≠ョ─ヵラス 2010年度ゴールデンスピリット賞が贈られることが決定した

├─≠ョ─ヵラス 公式戦12連勝:史上5人目

├─≠ョ─ヵラス 高卒新人の初登板初勝利:史上12人目

├─≠ョ─ヵラス 高卒新人の完封勝利:史上14人目

├─≠ョ─ヵラス 20歳以下の日本シリーズ勝利:史上5人目

├─≠ョ─ヵラス 日本シリーズ1試合13奪三振:史上3人目

├─≠ョ─ヵラス 同一日本シリーズ24奪三振:歴代2位

├─≠ョ─ヵラス 公式戦開幕5戦連続2桁奪三振:史上初

├─≠ョ─ヵラス 日ハムの若きエース ダルビッシュ 進化の軌跡

├─≠ョ─ヵラス ユニホーム忘れた!「ヤギビッシュ」で11連勝

├─≠ョ─ヵラス ダルビッシュ、結婚を語ったヒーローインタビューは狙い通り

├─≠ョ─ヵラス 日本のエースです!ダル2戦連続完投11勝

├─≠ョ─ヵラス 周囲に打ち明けず…日本ハム・ダル、骨折していた!

├─≠ョ─ヵラス ダルビッシュ丸刈りで球場入り
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【2010/11/07 16:16 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
踊り250
「平成」の元号を公式発表した際に使用された平成の文字を墨書した半紙を記念品として所蔵しており、20世紀末年になってバラエティ番組で所有の事実を公表した(番組に出演はせず、会場とは電話でのやりとりをしたのみであった。電話応対の声は年齢を感じさせぬほど大きく、現役当時と変わらず言語明瞭であった、その後、再びバラエティ番組で映像で映された)。現在は、孫のDAIGOがうたばんやめちゃ×2イケてるッ!などに出演した際に持ち込んでいる。
消費税導入の決断を彼に迫ったのは西部邁であった。赤坂の料亭で彼と会談した際、西部に「腹をくくれ」と導入の決断を迫られ、「わかった」と滂沱の涙を流しながら答えたという。[10]
書道を趣味とした。
昭和から平成になったときの首相であることはあまりにも有名だが、大正から昭和になったときの首相若槻禮次郎も島根県出身である。
昭和天皇が1988年9月19日に吐血し、崩御するまでの最後の3ヶ月の間、竹下は好きなゴルフを断ち、いつでも緊急事態に対応できるようにと皇居から30分以内の場所にしか外出しなかったことを妻の直子と次女(DAIGOの母)が証言している[11]。
その影響力から、島根県を「竹下王国」と比喩されることがある。竹下本人の死後は、青木幹雄にちなんで「青木王国」とも。小沢一郎の地元である岩手県が、いわゆる「小沢王国」と呼ばれるのも、これに関連する。2007年の参議院選挙で、景山俊太郎が落選したことにより、自民党がすべて占めていた島根県の衆参の議席の一角が崩れることになった。
孫の影木栄貴いわく「政治オタク」で、孫達にも何かにつけ長々と政治や行政の話をして聞かせ、最後の入院生活で容態が徐々に悪化していく中でも税制や選挙の話を喋り続けていた程だったという。[12]
毎年娘達とその家族を富士の裾野に持っていた別荘に呼び寄せて過ごし、長いときには1ヶ月近く孫達を滞在させていた。孫達には「周りの人にいつも感謝しなきゃいかん」が口癖だったという。[13]この別荘には安倍晋三なども訪れたことがある。竹下の出世に伴い警備が厳しくなり孫達も思うように別荘の周辺で遊べなくなったため、孫の1人である影木栄貴は当時日記でぼやいていたという。[14]
自宅には麻雀ルームがあり、麻雀を趣味としていた。政界の著名人を集め、よく打っていたようである。妻と一緒に麻雀を打っていた際、妻が天和を出し、記念にみんなで色紙にサインをした。その時に打っていた面子は竹下、妻、小渕恵三、川内康範である。
血液型はB型。
略歴 [編集]

学歴 [編集]
1941年(昭和16年) - 島根県立松江中学校卒業
1942年(昭和17年) - 第一早稲田高等学院入学
1947年(昭和22年) - 早稲田大学第一商学部卒業
政歴 [編集]
1951年(昭和26年) - 島根県議会議員選挙に初出馬して当選。
1958年(昭和33年) - 第28回衆議院議員総選挙に出馬し、島根全県区でトップ当選。
1964年(昭和39年) - 内閣官房副長官(第1次佐藤内閣、第1次佐藤第1次改造内閣、1966年7月まで)
1971年(昭和46年) - 内閣官房長官(第3次佐藤改造内閣、1972年7月まで)
1974年(昭和49年) - 内閣官房長官(第2次田中角榮第2次改造内閣、1974年12月まで)
1976年(昭和51年) - 建設大臣(三木内閣、1976年9月まで)
1978年(昭和53年) - 衆議院予算委員長(第87回国会)
1979年(昭和54年) - 大蔵大臣(第2次大平内閣、1980年7月まで)
1982年(昭和57年) - 大蔵大臣(第1次中曾根内閣、第2次中曾根内閣、第2次中曾根第1次改造内閣、第2次中曾根第2次改造内閣、1986年7月まで)
1985年(昭和60年) - プラザ合意
1986年(昭和61年) - 自由民主党幹事長(1987年10月まで)
1987年(昭和62年)
7月4日 - 経世会(竹下派)旗揚げ
11月6日 - 第74代内閣総理大臣となる(1989年6月3日まで)
1988年(昭和63年) - 大蔵大臣(竹下内閣、1988年12月まで)
1989年(平成元年) - 6月3日 内閣総辞職
1992年(平成4年) - 経世会分裂
1999年(平成11年) - 4月、変形性脊椎症のため入院。
2000年(平成12年)
5月1日 - 入院中の病院より政界引退を表明。
6月19日 - 呼吸不全のため北里研究所病院にて死去。墓所は島根県雲南市掛合町掛合の竹下家墓地。
受賞歴 [編集]
1994年(平成6年)8月23日:中国人民大学より名誉博士号を授与された。
栄典 [編集]

2000年(平成12年)6月20日:正二位
2000年(平成12年)6月20日:大勲位菊花大綬章
家族・親族 [編集]

実家
父・勇造(酒造業、政治家)
島根県出雲市今市町出身。印刷業を営む武永(たけなが)家から竹下家に婿養子に入った。実兄の武永貞一は武永明文舎印刷工場経営主であり、大正14年(1925年)より昭和30年(1955年)まで今市町議から出雲市議を連続つとめ、また同商工会議所会頭等を歴任した[15]。
勇造は、妻唯子を失った寂しさからか、何かと政江に“干渉”したという。竹下後援会の「きさらぎ会」の元幹部によれば、「勇造さんは、敗戦を意識して自暴自棄になっていたのかもしれないが、その執拗な“干渉”は、毎夜のように政江さんを悩ましていました。政江さんは、ノイローゼ状態となり、睡眠薬を手放せなくなっていたのです」という[16]。
岩瀬達哉著『われ万死に値す―ドキュメント竹下登』69頁によると、竹下家関係者は勇造について「勇造さんは、いまでいう“逆玉”ですわ。家つきの娘と結婚して、気楽な生活を楽しんでました。家業の酒造りは、奥さんと番頭さんにまかせっきりで、政治談議をはじめると尽きることがない。ですから、朝はいつも11時前には起きてきたことがない。“まだ寝ちょって起きない”といってよく起こしたものです」と述べている。
実母・唯子 
1945年(昭和20年)3月、41歳の若さで京都の病院で死亡[17]
神一行著 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』186頁によれば「たいへん進歩的な人だったようで、当時、松江中学の教師をしていたマルキストの福本和夫の影響を強く受け、先祖代々つたわっていた“日の出正宗”という酒の名前を“大衆”という名に変えてしまい、二級酒しか造らせなかったという人である。“人のために生きろ”というのが口癖で、竹下もその薫陶を受けて育った。幼少の頃から政治的環境にあったというべきだろう」という。
異母弟・三郎 
現在株式会社「竹下本店」代表取締役社長[18]
異母弟・亘
NHK記者から登の秘書となり、登の引退後、地盤を継ぎ政治家となった。
異母妹(医師に嫁ぐ)[19]
自家
前妻・政江(旧姓竹内)
後妻・直子(島根県、銀行員遠藤捨次郎の娘)
岩瀬達哉の著書 『われ万死に値す—ドキュメント竹下登』28ページによれば、「直子は、竹下家とは親戚筋にあたる遠藤捨次郎、周子を両親に大正十五年九月に出生。両親はともに島根県人だったが、銀行員だった父の任地の関係で、直子自身はほとんど東京で暮らしている。島根には、学生の頃、“夏休みなどにおじいちゃん、おばあちゃんのところに帰るぐらい”だったと、雑誌の対談で語っているが、実は、戦時中竹下家に疎開していたことがあった。竹下の父・勇造の兄と、直子の母・周子の姉が結婚していることもあって、竹下が早稲田大学第一高等学院の受験に上京したときは、直子の家に泊まるなど、両家の交流は比較的頻繁に行われていた。」という。
長女・一子(山梨県、政治家金丸信の長男康信の妻)
結婚について、神一行著 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』191頁によれば、「この結婚話を持ってきたのは佐藤栄作夫人の寛子だった。康信が早大卒業後、NHKの放送記者をしているころだ。一度の見合いで話は即座に決まった。」という。晩年の金丸信の介護を献身的に務めていた。
現在は山梨県南アルプス市の特別擁護老人ホーム「白根聖明園」の施設長を務める。[20]
次女・まる子(毎日新聞政治部記者を経て竹下の秘書を務めた内藤武宣[21]の妻)
三女・公子(竹中工務店創業者一族で同グループ内のTKリアルティ専務取締役に就いた竹中祐二の妻)
現在はゴルフグッズなどの販売会社「株式会社たけみ会」代表取締役。[22]
他家
次女まる子の娘にあたる漫画家の影木栄貴と、その弟でミュージシャンのDAIGO(内藤大湖、BREAKERZ)は孫。竹下の初孫にあたる長女一子の娘はかつて「幽木遊貴」のPNで従妹の影木と同人誌活動を行っていた。他に一般人の孫(男子)が2名。
同じ島根県出身の加藤辨三郎(元協和発酵会長)は遠縁にあたり、「おじさん」「登」と呼びあっていたという[23]。
系譜 [編集]

竹下家
岩瀬達哉『われ万死に値す—ドキュメント竹下登』 71、74、75頁によれば、
「江戸時代、竹下家は奥出雲の山林大地主田部家傘下で庄屋(現在の村長)を務めた関係から、慶応2年(1866年)酒造りの権利である「酒座」を同家から譲り受けた[24]。戦前の竹下家は「田部家の“中番頭”」ではあったものの、掛合地区では圧倒的な権勢を誇っていた。戦後の農地解放で、竹下家が手放した農地と山林は、『掛合町誌』によれば合計約五百六十九反(十七万七百坪)に上っている。これは、掛合地区で3番目に多く農地と山林を手放した地主であった。
祖父・儀造は、第二十八区掛合村戸長を長く務め、明治22年(1889年)から大正14年(1925年)まで掛合村の村会議員だった。
父・勇造は、昭和16年(1941年)掛合村の名誉村長を務め、昭和17年(1942年)島根県議会議員となった。戦後公職追放が解かれた後、掛合町の教育委員長を17年にわたって務めた。」
【2010/11/02 22:37 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
踊り249
内閣総理大臣 [編集]


1988年、トロントサミットに出席


訪米時に政府専用機として使用された日本航空のマクドネル・ダグラスDC-10型機から降機する竹下と妻・直子
昭和最後の総理大臣 [編集]
経世会を結成した1987年の11月に、中曽根康弘首相の裁定により安倍晋太郎、宮澤喜一の2人を抑え第12代自民党総裁、第74代内閣総理大臣に就任した。
首相としては初の地方議会議員出身者で、同時に初の自民党生え抜き(初当選は、保守合同後初の総選挙:1958年5月)であった。また竹下は昭和最後の総理大臣でもあった(奇しくも大正から昭和にかけての総理は、同じ出雲出身の若槻禮次郎)。
首相時代の答弁は「言語明瞭・意味不明瞭」と評され、回りくどい表現が多いことで有名だった。
主な施策と事件 [編集]
全国の市町村に対し1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)にかけて地方交付税として一律1億円を支給するふるさと創生事業を実施した。
1988年、野党や世論に強硬な反対意見が多かった税制改革関連法案を強行採決で可決し、日本初の付加価値税である消費税を導入した。
日米貿易摩擦の懸案の一つだった牛肉・オレンジについて、日米間の協議で輸入自由化することで合意した。
1988年にリクルート事件が発覚し、政治不信が高まった。竹下自身の疑惑も追及され、秘書で竹下の金庫番といわれた青木伊平が1989年4月26日に自殺している。
現職首相として靖国神社に参拝しなかったのは石橋湛山以来。
退陣 [編集]
こうした状況のなか世論の反発を受け、支持率がついに3.9%に落ち込むまでに至り、財界も石原俊らが公然と竹下の退陣を迫り、1989年6月3日に内閣総辞職に追い込まれた。内閣総辞職直前には竹下登邸周辺でデモも起きた。この竹下邸は旧佐藤栄作邸である。
総理大臣退任後 [編集]
首相辞職後も表向きは「玉拾いに徹する。」と言いつつも宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一という歴代の内閣誕生に関与するなど、政権に強い影響力を持っていた。しかし、1992年(平成4年)に東京佐川急便事件が発覚。1987年の総裁指名に関連したほめ殺しで知られる皇民党事件が報道されるなど、ますます政界不信が高まり自民党支持が減る原因となった。
1992年10月、東京佐川急便からの5億円闇献金事件の責任を負って金丸信が議員辞職、竹下派会長辞任に追いこまれると、後継会長に小渕恵三を推す派閥オーナーの竹下と、羽田孜を推す会長代行の小沢一郎の主導権争いは激しくなった。竹下は中立を守っていた参議院竹下派に対する多数派工作などを行い、小渕を強引な形で後継会長に据えた。これに反発した小沢、羽田らが新派閥・改革フォーラム21を結成、竹下派は分裂状態となった。この派閥は1993年(平成5年)6月に自民党から離脱し、新生党となった。そして同年7月18日の総選挙で自民党は過半数割れし、新生党、社会党、日本新党など非自民8党連立による細川内閣が誕生。
自民党は1994年(平成6年)の社会党との連立による村山内閣発足を機に政権に復帰。村山内閣誕生に竹下も深く関与したことから再び隠然たる影響力を持つようになり、村山内閣後は竹下派出身者による橋本内閣、小渕内閣を実現させた。
竹下は、1999年(平成11年)4月から体調不良のため北里研究所病院に入院、表舞台にでることは少なくなった。かわって、竹下と同じ島根県出身で「竹下の黒子」といわれていた参議院議員・青木幹雄が政界の実力者として取り上げられることが多くなった。容態は次第に悪化し、4月に小渕が倒れたとの一報を聞いたことも手伝い、引退を決意する[7]。 そして2000年(平成12年)5月1日、病床で録音した竹下の引退宣言のテープを、当時の竹下派の最高幹部たちが本人不在のなかで記者会見において発表した。そこで次回の衆議院議員選挙に立候補しないことを表明し、政界からの引退を宣言した。引退表明後は議員でなくなったことで気力が失われたのか急激に弱っていったという[8]。
第42回総選挙期間中の2000年6月19日、北里研究所病院にて膵臓癌、発表では脊椎変形症による呼吸不全のため死去、76歳没。法名は顕政院釋登涯。選挙区地盤を譲られた異母弟の竹下亘は錦織淳らを退け当選している。
人物像 [編集]

初当選した衆院選の公示日に出雲市の目抜き通りで「島根に生まれ、島根に育ち、やがて島根の土になる」と第一声を上げた。
口癖は「~だわな」。これは出身地の方言(出雲弁)の影響である。
国会答弁などでは、はきはきと発言するが文章全体の意味がつかめないという、言語明瞭、意味不明瞭な竹下語を駆使し、野党に言質を与えることがなかった。
竹下の秘書出身で、後に参議院のドンと呼ばれる青木幹雄にもこの傾向があるとされる。
「気配り・目配り・金配りで総理になった」と揶揄されるほど敵を作らない性格であり、政財界に幅広い人脈を持っていた。他派閥では安倍晋太郎、宇野宗佑、海部俊樹、藤波孝生、河野洋平、三塚博、武村正義、野党では村山富市、山口鶴男、矢野絢也、塚本三郎などと交流があった。「反経世会」を掲げる小泉純一郎(後に首相)とも大蔵大臣-大蔵政務次官としてコンビを組んだ間柄であり、悪い関係ではなかったようだ。とはいえ「竹下さんの頃の早稲田は無試験だったんですってねえ」など、学歴関係で馬鹿にしてきた宮澤喜一には、さすがに我慢ならなかったようである。
清和会に所属していた作家石原慎太郎(竹下内閣で運輸大臣)も、(回顧録ほかの)独自の文章表現で、政治的な天才と評している。なお石原は、宮澤を最も毛嫌いしていた。
1988年、消費税導入が可決されるとリクルート事件の影響もあって国民から厳しい批判を浴び、内閣支持率は史上最低に落ち込んだ。しかし竹下は「消費税を導入したことは後世の歴史家が評価してくれる」と語った。実際、現在において竹下内閣の最大の功績は大平、中曽根両内閣が実現できなかった消費税導入を実現した事とする見方が一般的である。
自社さ連立政権で行政要職経験もなく突然不慣れな内閣総理大臣の職を務めた村山富市にとって、同い年の竹下は党派を超えて「良き相談相手」だったことを語っている[9] (竹下は1924年(大正13年)2月26日生まれ、村山は同年3月3日生まれと1週間しか誕生日が離れていない)。
元 社会民主党、衆議院議員の辻元清美は、これまでで一番面白いと思った政治家は誰かの質問に真っ先に竹下の名前を挙げている。
佐藤政権時代、ズンドコ節の替え歌を作り「講和の条約吉田で暮れて 日ソ協定鳩山さんで 今じゃ佐藤で沖縄返還 10年たったら竹下さん トコズンドコ ズンドコ」と宴席で歌っていた。
経世会の議員は中選挙区時代に自民党同士の争いになった場合でも落選することが少なかった。「選挙上手」が多いことで知られていたが、これは竹下の選挙戦略を用いていたため、といわれる。竹下自身「私の専門は選挙学」と言い、周囲から「選挙の神様」と呼ばれていた。
総理就任後、2週間も経たないうちに首相官邸にて右翼団体幹部と面会し、一部からはその見識を問う声が上がった。
長年田中派の後継者と見られていながら、頭を抑えられ耐え忍んでいたため、当時NHKで放送されていたドラマになぞらえておしんと呼ばれていたこともあった。
孫の影木栄貴、DAIGOや妻の直子によると、総理に就任し帰宅した時の一声は「アイムソーリ、ボクソーリ」で、この台詞がお気に入りだったという。
後藤謙次によれば、孫のDAIGOが髪を青く染めた時、竹下は「おい後藤、ロックってのは髪を青くしなきゃ出来ないのか」と尋ねたという。
絶対に人の悪口を言わないことで有名だった。また、「石橋どころか二重橋でも叩いて渡る」といわれたほどの異常な慎重さでも知られる。
他人を絶対怒らないことでも有名。航空隊員として出征した竹下は、当時すでに結婚していたが、基地を訪ねてきた妻・政江を痛罵した。しかしそれにショックを受けた政江は、島根に帰った後自殺してしまう。このことがトラウマになった竹下は、以後他人を叱れなくなったという。また、出征中に政江が妻を亡くしたばかりの竹下の実の父親勇造と肉体関係を持たされていたことが自殺の背景にあったとの噂がその後の竹下をさらに苦しめることになる。後日竹下の父親も戦死した軍医の未亡人と再婚し、後妻との間に異母弟である亘と三郎と一女が生まれる。
リクルート事件もあって首相在任中は、週刊誌を中心に金権政治批判を受けていたが、週刊誌を告訴するよう迫った側近に対し、「権力者というものはそういうことをすべきではない」と側近をたしなめた。
死後、元韓国大統領・金泳三が早稲田大学で行った講演の中で、日韓共催サッカーW杯の発案者が竹下であることを明らかにした。
【2010/11/02 22:37 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
竹下登
├─≠ョ─ヵラス 消費税
├─≠ョ─ヵラス









概要 [編集]

自由民主党の最大派閥であった経世会の創設者として政府・与党に影響力を誇った。ふるさと創生1億円、消費税導入などを行った政治家。リクルート事件により総辞職したが、その後も政界に甚大な影響力を持っていた。
昭和最後の内閣総理大臣であり、平成改元の際の内閣総理大臣でもある。
また竹下家12代当主で第74代内閣総理大臣であった竹下を偲び、生前交流があった関係者の好意、浄財によって、7回忌に当たる平成18年(2006年)5月、竹下登記念館が建てられた[1]。
来歴 [編集]

生い立ち [編集]
島根県飯石郡掛合村(現・雲南市)に父・竹下勇造、母・唯子の長男として生まれた。竹下家は300年つづいた旧家で、江戸時代には庄屋を務め、幕末から代々造り酒屋を営んでいる[2]。登は竹下家の12代目である。
学生時代 [編集]
旧制松江中学校(後の島根県立松江北高等学校)卒業後、旧制松江高等学校(後の島根大学)の入試に失敗し、1年間の浪人生活を送り、第一早稲田高等学院を経て1944年(昭和19年)4月、早稲田大学第一商学部に入学。その直前の3月、素封家の娘・竹内政江と学生結婚をする[3]。
1944年(昭和19年)8月、軍隊に入ると同時に、陸軍特別操縦見習士官の第四期生に志願する[4]。
1945年(昭和20年)3月、実母・唯子が41歳の若さで京都の病院で死亡[5]。
1945年(昭和20年)5月、妻・政江が自殺。妻の自殺理由に関する噂は生涯、竹下を苦しめた。自殺する少し前、舅・勇造による執拗な“干渉”に思い悩んでいた政江は、竹下に相談するため、わざわざ島根から上京していたが、竹下は“お前のほうに問題がある”と逆に叱責したという[6]
1946年(昭和21年)1月に遠藤直子と結婚。同年11月大学在学中でありながら掛合村の農地委員に立候補し、当選。戦後の農地解放に地主生まれでありながら率先して取り組む。1947年(昭和22年)9月早稲田大学第一商学部を卒業する。
帰郷 [編集]
郷里・島根に帰り1947年12月より地元掛合中学校の代用教員(英語科)となる。後日内閣総理大臣に就任した際に「元中学校の英語教師が日本の総理大臣になる」と世界中のマスコミに報道される。しかし実際の英語力は時代背景もあるがお粗末なものだったらしい(英語通で有名な同年代の宮澤喜一とは比べるべくもない)。
傍ら、青年団活動に身を投じた。岩瀬達哉著『われ万死に値す—ドキュメント竹下登』77ページに当時の教員仲間の証言がある。元同僚教師は「そもそも竹下先生が代用教員となったのは、青年団運動をやるためだったと聞いています」、「普通、青年団の活動というのは一日の仕事を終えた夕方からはじまるものです。竹下先生はそれまでの間何をするでもなくブラブラしていた。大学まで出て昼間から遊んでいたのでは何かと世間体が悪い。ですから当時掛合中学の校長だった鹿田三郎さんが心配して代用教員の職を世話したのです」と述べている。
後に竹下の側近として活躍した野中広務とはこの時代に知り合っている(野中と時間を打ち合わせして同じ山陰本線の夜行列車で上京したこともある。また野中の妻は竹下の掛合中学校の代用教員時代の教え子の一人である)。他にも鳥取県の野坂浩賢や千葉県の浜田幸一とも青年団活動を通じて親しくなり、国会活動の際には党派を超えた友情関係があったとされる。
初当選 [編集]
奥出雲の山林大地主である田部長右衛門(第23代)(1959年より島根県知事を3期12年務めた)より、強い支援を得て政界へ進出。島根県議会議員2期を経て、島根県全県区から第28回衆議院議員総選挙に34歳で立候補し、1958年(昭和33年)5月に初当選。同じく初当選を飾った金丸信、安倍晋太郎とは、終生深い信頼関係を築く。その後も衆議院議員総選挙で、連続14回当選した(最後の選挙区は小選挙区制になっての初の選挙で島根2区から出馬)。
ニューリーダーへ [編集]
自民党内では佐藤派、後に田中派に所属。佐藤栄作と、佐藤派五奉行の1人で早大雄弁会の先輩でもある橋本登美三郎の寵愛を受ける。1964年(昭和39年)11月に佐藤内閣が誕生すると、内閣官房長官に就任した橋本の推薦で内閣官房副長官となり、次代を担うニューリーダーとして次第に頭角を現す。
また、長女・一子が金丸信の長男・康信に嫁ぎ、金丸信との盟友関係はより一層強固なものとなった。この結婚は、佐藤栄作の妻・寛子のすすめによるという。
1971年(昭和46年)7月、歴代最年少となる47歳で第3次佐藤内閣の内閣官房長官として初入閣。田中内閣でも再び内閣官房長官となる。その後も三木内閣で建設大臣、大平内閣で大蔵大臣を歴任した。中曽根内閣では4期連続して大蔵大臣に就任。先進5カ国がドル高是正で一致した1985年(昭和60年)の「プラザ合意」に加わった。
創政会結成から新派閥経世会誕生へ [編集]
1985年2月、派閥領袖の元首相・田中角栄に反旗を翻す形で、金丸らの協力を得て田中派内に勉強会「創政会」を結成。当初はなかなか煮え切らない竹下の態度を周囲は心配したが、田中との会談中「俺がもう一回やってからお前がやれ」との発言に決意を固めたといわれている。反田中派の動きに激昂した田中の猛烈な切り崩しに遭うも、田中はそのさなかに脳梗塞で倒れる。
やがて田中派内部は派閥会長の二階堂進派と創政会派、そして派内融和の中間派の三つに分かれる。その後、二階堂と竹下はしのぎを削るが二階堂は高齢で資金力が乏しく、また田中の威光が弱まった結果、中間派を取り込んだ竹下は1987年(昭和62年)7月、「経世会」(竹下派)として正式に独立。竹下派には田中派141人のうちの118人が参加し党内最大派閥の領袖となった。田中の意に反した竹下派への参加を潔しとしない田中派メンバーは徹底的に追い詰められ、田中派会長の二階堂を中心とする少人数のグループ(二階堂グループ)へと転落した。
このときのメンバーだった橋本龍太郎、小渕恵三、梶山静六、小沢一郎、羽田孜、そして田中側近の小沢辰男に近いことから当初参加せず後から参加した奥田敬和、口が軽いとみられ早稲田の後輩ながら誘われなかった渡部恒三は後に竹下派七奉行と呼ばれた。後の幹部に野中広務、綿貫民輔、村岡兼造らがいた。また、後に民主党代表となる鳩山由紀夫、岡田克也も若手として所属していた。
【2010/11/02 22:36 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
踊り46
賞賛と挫折
初の大役となったブロードウェイの舞台『ピクニック』での演技が映画関係者から高い評価を受け、ワーナー・ブラザーズと5年間の専属契約を交わす。アクターズ・スタジオに同期で入学したディーンが主役を演じた『エデンの東』では当初主人公の兄を演じる予定でスクリーン・テストまで行ったものの、監督のエリア・カザンがニューマンの出演を却下。1954年に『銀の盃』でスクリーンデビューを果たすものの、作品自体が映画評論家から失敗作の烙印を押されるという不本意なデビューとなった。ディーンとブランドがそれぞれ『エデンの東』『波止場』で世界的トップスターへと上り詰める一方でポールは満足のいく作品に出演できないうえ、スタジオや批評家から「第2のマーロン・ブランド」と称されることに失望し映画を離れ活動の拠点を舞台とテレビドラマへ移した。
【2010/11/01 02:03 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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