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【2024/10/06 14:17 】 |
吉見一起
吉見 一起(よしみ かずき、1984年9月19日 - )は中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(投手)。

目次 [非表示]
1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入り後
2 プレースタイル
3 人物
4 詳細情報
4.1 年度別投手成績
4.2 背番号
4.3 タイトル・表彰
4.4 個人記録
5 脚注
6 関連項目
経歴

プロ入り前
小学校2年生の時に野球を始めた[1]。高校時代は金光大阪のエースとして2002年の第74回選抜大会に初出場するも1回戦で森岡良介(東京ヤクルトスワローズ)らを擁する明徳義塾に敗れる。
卒業後トヨタ自動車に入り、社会人ナンバー1投手と評された。吹田市立片山中学校同窓生(1学年上)の妻と出会ったのもこの頃[1]。肘の手術もあり評価はやや下がっていたものの、2005年のドラフトの目玉となり、2005年のドラフト希望入団枠で中日に入団した。
プロ入り後
2006年
ルーキーイヤーのこの年は、9月10日に1軍昇格し、対広島戦でプロ初登板を果たす。1イニング1/3を無失点で抑える。9月18日の対横浜戦で5回2失点で初勝利。また日本シリーズにも中継ぎとして登板した。
2007年
ローテーションの谷間で昇格することがあったが、打ち込まれるなど不調に終わった。ファーム日本選手権では最優秀選手賞を得た。その後ドミニカ共和国のウインターリーグに参加した。帰国後の12月16日に結婚[1]。
2008年
オープン戦3試合15イニングを無失点に抑え、初の開幕一軍入りを果たした[1]。4月6日の対ヤクルト戦で初完投・初完封勝利。4月13日の広島戦で被安打11ながら連続完封を記録した。なお被安打11以上の完封は、1989年8月4日巨人戦(横浜)で大洋ホエールズの新浦壽夫が13安打を打たれて以来の記録となった。開幕からの連続無失点イニングを24回2/3まで伸ばし、8連勝はチームタイ記録[1]。また、同シーズンはウエスタンリーグの開幕投手を務めた。一時期はチーム事情からセットアッパーに回ったが、右肩の故障によりチームから一時離脱、出場が決まっていたオールスターゲームは出場を辞退した。肩痛が癒えた夏以降は再び先発ローテーションに戻り、結果このシーズンは10勝を記録した。また、シーズン通算2完封はコルビー・ルイス(元広島東洋カープ所属)と並びセ・リーグ最多であった。
2009年
中日のエースであった川上憲伸がアトランタ・ブレーブスに移籍した直後のシーズンとなった。前年の実績を糧に先発ローテーションを勝ち取り、4月4日の横浜戦でシーズン初先発を95球完封勝利で飾った。順調に勝ち星を伸ばし、前半戦最後の登板となった7月18日の対横浜戦で、シーズン10勝目を早くもシーズン4度目の完封勝利にて達成し、自身初の2年連続2ケタ勝利を決めた。オールスターゲームにも監督推薦にて選出され、第二戦に藤川球児(阪神)の後を継ぎ登板したが、負け投手となった。後半戦も更に勝ち星を伸ばし、10月3日の横浜戦で16勝目を挙げ、最終的に館山昌平(ヤクルト)と共に16勝で最多勝利のタイトルを獲得した。防御率も1.996(同僚のチェン・ウェインに次ぐリーグ2位)と、自身初の防御率1点台をマークした。また、シーズン通算4完封はチェン、涌井秀章(西武)と並び両リーグ最多、無四球試合3試合は両リーグ通じて単独最多と、年間を通じて安定したピッチングを披露し、川上憲伸の抜けた穴を埋める活躍をした。 中日の進出が決まっていたクライマックスシリーズ第2ステージに先立ち、10月22日に中日新聞が「今年7月途中から、登板前後にナゴヤドーム内の医務室で30分程度の時間をかけ、点滴(ニンニク注射)を受けていた。」と答えた吉見のインタビュー記事を掲載した為、即日日本プロ野球組織医事委員会が反ドーピング規定への抵触可能性があるとして、東京都内で球団関係者立会いのもと本人に事実確認を行った[2]。しかし、この事実確認とカルテなどの調査により、10月24日にNPB側が「医学的に正当な治療行為の範ちゅうにある」と違反は無かったとの判断を示し、潔白が正式に証明された[3]。この一件は第2ステージ直前の出来事、かつ同年3月開催のWBCへの選手派遣に関する意見不一致を巡る原・落合両監督の因縁の対決だった事もありマスコミが大々的に報道した。
2010年
自身初の開幕投手(対広島戦)を務めたが、6回3失点で敗戦投手となった。
プレースタイル

現役の先発投手としては武田勝(日本ハム)と石川雅規(ヤクルト)に次ぐ通算与四球率1.71と抜群の制球力を誇り、ノーワインドアップのオーバースローから150km/hを超える速球とスライダー、シュートを武器に、フォークボール、カットボール、チェンジアップ、パームボール等多彩な変化球を投じる。ただし、基本的な球種であるカーブは投げられない[4]。
人物

岩田稔とは高校時代に大阪市内の同じ治療院に通っていた。
ルーキー時、CBCの番組サンデードラゴンズの企画で旅行に行き、新井良太、春田剛、平田良介と魚釣りをしたが、吉見は一匹も釣れず、罰ゲームをやらされた。 ちなみに生き物には全く触れることができないらしい。(同番組内で本人発言。釣りの際は番組スタッフに餌をつけてもらっていた。)
二人の弟(双子)がおり、二人とも兄・一起と同じ金光大阪高校の野球部に所属していた。2007年夏には大阪府大会決勝で中田翔のいる大阪桐蔭高校を破って甲子園行きを決めた。両者とも甲子園メンバー入りしている。妹も同校野球部のマネージャーを務めていた。
トヨタ自動車の先輩金子千尋の影響で夫婦ともども風水に凝っている。ラッキーカラーは赤。チームカラーに合わないため、登板前日は真っ赤なトランクスを履いて寝る[1]。
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【2010/11/08 20:11 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
岩瀬仁紀
岩瀬 仁紀(いわせ ひとき、1974年11月10日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(投手)。
球界屈指のスライダー使いとしても知られている。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入り後
2 プレースタイル
3 バッティング
4 人物
5 詳細情報
5.1 年度別投手成績
5.2 背番号
5.3 タイトル・表彰
5.4 個人記録
6 CM出演
7 コラム
8 脚注
9 関連項目
経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]
西尾東高では、県大会でノーヒットノーランを記録。最後の夏は地方大会4回戦で敗退。愛知大学へ進学。愛知大学リーグでは1年春から外野手でレギュラー出場。打者としてリーグ通算101試合出場、384打数124安打、打率.323、9本塁打、64打点。通算124安打はリーグ歴代2位(1位は現中日チームマネージャーの神野純一)。1995年春季リーグでは愛知学院大戦で1試合3本塁打を記録。外野手としてベストナイン4度受賞。一方1995年秋季のリーグから外野手と兼任で投手としても登板する。投手としては3季で通算15試合登板し8勝4敗の成績を残した。大学3年時に外野手として大学オールジャパンに選出されるなど、当初は打者として注目されていた。[1]大学4年生時にナゴヤ球場でのスピードガンコンテストに出場、記録は136km/hと悪くなかったが、投球練習をさせてもらえなかったことが響いて肩(肘?)を痛め、3.4ヶ月はまともに投球できなかった(サンデードラゴンズで岩瀬本人が語った)[要出典]。卒業後は社会人野球のNTT東海に入社。1998年のドラフトで中日ドラゴンズを2位で逆指名して入団する。
プロ入り後 [編集]
1999年、開幕戦で失点を許し1アウトも取れずに降板。しかしこれをバネにして以降の登板で首脳陣の信頼を勝ち取ると左のセットアッパーを任され持ち前のコントロールとスライダーを武器に落合英二・李尚勲・宣銅烈らと共に活躍し、この年の優勝に貢献。最優秀中継ぎ投手も受賞。防御率1.57、中継ぎながら10勝と好成績を残したが、同期の新人に20勝投手となった巨人の上原浩治がおり、新人王は逃した。
2000年10月8日の対広島戦で1試合のみ先発で登板し、7回7安打1失点で勝利投手となった。元々先発を希望していたこともあり、当時の星野仙一監督がテストも兼ねて起用した。 後に元チームメイトでもあり大親友でもある落合英二が『サンデードラゴンズ』で「岩瀬が投げた日はローテションの谷間で、本人が星野監督に先発させてくださいと直訴した」というエピソードを語った[要出典]。
その後は中継ぎで起用され、特に2002年、2003年は防御率1点台でシーズンを終えるなど、首脳陣の信頼を勝ち取っていく。2004年には、落合博満新監督より抑えに指名される。が、開幕直前に自宅の浴室で転倒して左足小指を骨折。その影響もあってか前半戦は不調が続いたが、2勝3敗22セーブの成績でチームの5年ぶりの優勝に貢献した。また、8月に行われたアテネオリンピック野球日本代表にも選出された。
2005年10月1日、対広島戦(ナゴヤドーム)において46セーブ目を達成し、佐々木主浩のシーズン最多セーブ記録を更新。60試合に登板しながら被本塁打0だった。
2006年は、1月20日の契約更改交渉で7500万円増の推定年俸3億500万円で更改。中日に在籍した日本人選手としては、1992年の落合博満を抜く球団史上最高年俸となった[2]。4月4日の対横浜戦で、9回裏に多村仁に同点の2点本塁打を打たれ救援失敗。2004年9月25日の対横浜戦の村田修一を最後に許していなかった本塁打を打たれ、被本塁打0の記録は対戦打者265人目にして途絶えた。7月30日、プロ入り通算100セーブを達成。10月8日、プロ野球史上初の2年連続40セーブを達成。2年ぶりのリーグ優勝を決めた10月10日の対巨人戦の11回裏、3対3の場面で登板し、2回を無失点に抑えて胴上げ投手となった。
2007年4月6日、郭源治の持つ球団記録を更新する117セーブ目を挙げた。7月7日、通算500試合登板を達成(9年目での達成は史上8人目)。9月8日、秋山登に並ぶ、9年連続50試合登板のプロ野球タイ記録を樹立。翌日の9月9日には、史上6人目の150セーブを達成。9月19日、プロ野球史上初の3年連続40セーブを達成。しかしシーズン中盤に極度の不振に陥った。ストレートの球速が140km/hを下回るケースや低めへの制球に苦しむ場面が目立つなど、全体としては球威、制球に苦しんだシーズンであった(年度別成績の比較で入団3、6、9年目の成績が低調であることから、「岩瀬の不調は3年周期」と評されることがある)。クライマックスシリーズでは、対阪神の第1ステージ第2戦から対巨人の第2ステージ第3戦まで、いずれも8回途中からの4連投でチームの日本シリーズ進出に貢献。3勝1敗で迎えた日本シリーズ第5戦において、8回まで完全試合ペースの好投をしていた山井大介に代わり9回に登板。三者凡退に抑えて史上初の継投による完全試合を達成し、胴上げ投手となった。なお、山井から岩瀬への継投を行った落合監督の采配については、スポーツマスコミ、野球評論家などを中心に賛否両論が巻き起った。
詳細は「2007年日本シリーズにおける完全試合目前の継投」を参照


北京五輪で投球する岩瀬
2008年6月14日、アレックス・カブレラに557試合目にしてプロ入り初のサヨナラホームランを被弾した。8月、北京オリンピックに日本代表として出場したが韓国代表のイ・スンヨプに逆転ホームランを打たれるなど大会を通じて10点を失い、3試合で敗戦投手となった。帰国後はプロ野球史上初の10年連続の50試合登板を達成。また、ポストシーズンの無失点記録を22回1/3まで伸ばしている。12月、推定年俸4億3000万円(現状維持)で4年契約の契約更改を行った。
2009年4月21日、鈴木孝政の持つ球団記録を更新する通算登板587試合を記録。4月30日の対ヤクルト戦(明治神宮野球場)で青木宣親に頭部死球を当て、自身初の危険球による退場となった。5月12日、プロ野球史上4人目、左腕投手としては史上初の通算200セーブを達成。7月30日、プロ野球史上初の5年連続30セーブを達成。8月15日、歴代単独3位の通算228セーブを記録。8月18日、20試合連続セーブを達成。
2010年6月16日、対日本ハム戦(ナゴヤドーム)で、通算250セーブを達成。佐々木主浩・高津臣吾に次いで3人目の救援投手として名球会入りの条件を満たす[3]。さらに6月23日の対横浜戦(豊橋市民球場)で佐々木を抜く、プロ野球歴代2位となる通算253セーブを記録した。8月7日の対阪神戦で自己記録を更新する「6年連続30セーブ」を達成。
プレースタイル [編集]


この記事には「独自研究」に基づいた記述が含まれているおそれがあります。これを解消するためにある情報の根拠だけではなく、信頼可能な解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください。
岩瀬の最大の武器といえる球種はスライダーで、全投球の5割近くを占める。このスライダーは切れ味鋭く大きく真横に滑るように曲がるため、特に左打者にとっては「魔球」とも言われる。しかも直球とスライダーの軌道も途中までほぼ同じで、投球フォームも見分けがつきにくい。
そのほかには、シュート、 ムービング・ファストボール、スプリットも武器としている。また、ムービングファストはキャッチボールの時でも動いている。しかし自分では普通のストレートを投げているつもりなのだという。このムービングボールは入団して初めての春季キャンプで当時正捕手だった中村武志が取り損ねて突き指してしまったほどであった[4]。ストレートのスピードはプロ入り当初は140キロ台後半を記録することもあったが、2008年のデータでは138-145キロ程度であり[5]、最近ではすべての球種を低めに集め、左右の揺さぶりで勝負する[5]ピッチングをしている。
バッティング [編集]

前述の通り、バッティング面で大学時代にリーグ歴代2位を誇る成績を残しているほど素質は高い[6]。プロの打撃成績は2009年終了時点で48打数11安打で打率.208。打点3の成績を残している[1]。ただし同じくバッティングが得意とされる川上のようなスラッガータイプではなく、外野前に上手く狙う巧打が多い。抑えになってからは打席に立つ機会もほとんど無くなったが、8回途中から登板した2006年7月16日の阪神戦(京セラドーム)では、9回表にチームのリードを2点差に広げる効果的な犠飛を放って、9回裏の自身のピッチングを楽にさせている。
人物 [編集]

家族は妻と2子。
あだ名は「満太朗」(元同僚の野口茂樹が命名。由来は不明)。同じく中継ぎで活躍した先輩の落合英二はまんちゃんと呼んでいる。また公私ともに仲の良い川上憲伸は、岩瀬の「岩」の字から「ガンさん」と呼んでいる(岩本勉の「岩」の字から「ガンちゃん」と呼んでいることもある)。
前人未到の入団以来12年連続50試合以上登板(継続中)、シーズン46セーブの日本記録(藤川球児とタイ記録)などの記録を保持する日本球界史上でも屈指のリリーフ投手である。ハードな起用にも関わらず、致命的な故障もなく、防御率も常に高いレベルで維持しているのは、1日のうち数時間費やすほどの丹念な体のケアと自己管理によるらしい[要出典]。2005年ごろから魚、野菜中心の食生活にし、2010年の元旦から禁煙に取り組んでいる[7]。
「どんな形でもチームが勝てばいい」という気持ちでマウンドにあがっており、自身の記録にはあまりこだわりがないようである[4]。また本人は、「記録は引退後に振り返ればいい」とも語っている[7]。
中日ドラゴンズにおいて、入団以後リリーフ投手としてチームを支え続けているチームの大黒柱的存在。入団当初は中継ぎを、2004年からは抑えを任されている。その抑えに任命した落合監督からは絶大の信頼を寄せられており、あまり人を褒めることをしない監督が手放しで認める数少ない選手の一人。岩瀬が打たれ敗戦した際には、「岩瀬でやられたら仕方がない」というのが合言葉のようになっている。 初めて最優秀中継ぎ投手と最多セーブ投手の両方を受賞した投手でもある。彼を初めとする現代野球における中継ぎ投手の活躍は、旧来評価の低かった中継ぎ投手の地位を向上させ、オールスターゲームファン投票における中継ぎ部門の創設に繋がったといわれている。
酒が全く飲めない(体質的にアルコールを一切受け付けない)。リリーフで起用されるようになった理由も、1999年当時ドラゴンズで左腕のリリーフ投手が不足していたことに加え、投手チーフコーチだった山田久志が、岩瀬が酒が飲めないことを聞きつけ「(二日酔いの心配がないので)打たれても連投できる」と考えたことが一因である[8]。
抑えに回って以降は、毎年ナゴヤドームでのオープン戦の初戦の先発を務めるのが恒例となっている(2010年は調整遅れの為登板せず)。これは首脳陣の「たまには岩瀬に『誰も踏みならしていないマウンド』で投げさせてやりたい」という配慮である。
岩瀬のルーキーイヤーである1999年オフに行われたプロ野球ってナンだ?〜南原プロ野球研究会〜内でのドリームチームドラフト企画にて、当時現役であった古田敦也は投手部門で各球団の先発エース及びクローザーを差し置き、岩瀬をドラフト1位で選択した。 指名理由は「彼の真っスラは球筋で判断して打つことは出来ない。投げる前から真っスラと読んでそれ以外の球種ならゴメンナサイと割り切らないといけないから」であった。
2009年、長良川球場で通算200セーブを達成した際、通常中日の地方球場主催試合ではヒーローインタビューは行われないが、プロ野球記録達成という事情もあり特別に行われた。
普段はオーラがないと同僚によく言われている。落合英二いわく『グランドの外では何処でも居そうな普通の人! ひとたびグランドに立てばスーパーサイヤ人になる!!!』。2007年1月31日の中日スポーツの記事で沖縄で川上と一緒にタクシーに乗った時には、「(川上の)マネージャーさんですか?」と言われてしまったほど[9]。
2000年の東海豪雨の際、ナゴヤドームの駐車場に停めていた愛車が冠水した。
本人自身は、シーズン途中にシーズンのこれまでを振り返る事を嫌っている(2010年に達成した250Sの直後に、中日スポーツなどのインタビューにより)。
【2010/11/08 20:10 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
松本哲也
松本 哲也(まつもと てつや、1984年7月3日 - )は、読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(外野手)。
目次 [非表示]
1 経歴
2 プレースタイル
2.1 打撃
2.2 守備
3 詳細情報
3.1 年度別打撃成績
3.2 背番号
3.3 タイトル・表彰
3.4 個人記録
3.5 登場曲
4 CM
5 脚注
6 関連項目
経歴 [編集]

叔父松本純也が元ラグビー日本代表(スクラムハーフ)、父親が社会人ラグビーの選手だった影響で、中学時代は野球部とラグビー部を掛け持ちしていた。しかし体の小ささに悩んだ結果、ラグビーの道を諦め高校から本格的に野球を始める。
山梨学院大学附属高等学校時代には1年夏に甲子園に出場。2年先輩に玉山健太、1年先輩に大島崇行(共に広島東洋カープ)がいた。
東都の専修大学へ進学し、4年時には主将を務め、東都大学リーグで9季ぶりの1部復帰に貢献した。同期に長谷川勇也(福岡ソフトバンクホークス)がいた。2006年、育成選手として巨人に入団。
2007年、春季キャンプ中の紅白戦で活躍し、原辰徳監督に「走攻守で存在感があった。収穫だった」と言わしめた。紅白戦や練習試合での活躍が首脳陣に認められ、巨人の育成選手から初めて支配下登録された選手となった。1年目は1軍出場は無く、2軍では79試合に出場し、打率は.285、4盗塁に対し6盗塁死、三塁打は1本と俊足を発揮出来なかった。
2008年、5月28日の対楽天戦で一軍デビューを果たす。5月31日のソフトバンク戦でプロ初先発したが、プロ初打席で三ゴロを放ち、一塁ベースを駆け抜けた際に右くるぶしをはく離骨折。実戦復帰は2ヵ月後になり、その後一軍昇格の機会はなかった。二軍では打率.276、チームトップの10盗塁を記録。
2009年、初の開幕1軍入りを果たし、4月5日の対広島戦でプロ初安打を記録。初めて2番打者で先発出場した5月6日の横浜ベイスターズ戦でトム・マストニーから三塁打を放ち、プロ初打点を記録した。この試合以降、2番・中堅手としてレギュラーに定着。当初は相手先発が左腕の際は先発を外れていたが、後半戦からは投手の左右に関係なく先発を任された。「まだプロの身体が出来ておらず、フル出場は厳しい」という原監督の判断で定期的に休養日を与えられたため、規定打席にはわずかに届かなかったが、的確なチームバッティングで強力打線のつなぎ役を務め、堅い中堅守備でも再三のピンチを救うなどチームのリーグ3連覇と7年ぶりの日本一に貢献。育成枠出身選手としては初となるゴールデングラブ賞、育成枠出身の野手初の新人王を受賞。山口鉄也に続き、2年連続で巨人の育成枠出身選手が新人王を獲得した。本塁打0本で新人王に選ばれた野手は同じ山梨県出身の久慈照嘉以来二人目である。
2010年、開幕から2番センターでスタメン出場し盗塁とヒットを量産。4割を超える打率を記録していたが、4月25日の広島戦で左ふともも裏を負傷。当初数週間での復帰を見込まれたが、実際には約2カ月を要し、7月2日の阪神戦から復帰した。長期離脱にも拘わらずオールスターゲームにファン投票で選出され、育成出身野手として初出場、同時に育成出身選手初ヒットも第2戦に記録した。しかしペナントでは離脱前の調子を取り戻せず、大きく数字を落とした。それでも打率.287 17盗塁と前年と同程度の成績は残した。盗塁死は半分以下に減らすなど走塁技術にも改善が見られた。
プレースタイル [編集]

打撃 [編集]
右手と左手を離して構える天秤打法を採用している[1]。フォームについて専修大学のGMの江崎久(現専修大学野球部監督)からは「(過去近藤和彦が採用していた)『天秤打法の真似ではないか』という声も聞くが、大学時代は普通に構えて打っていた。ギリギリで巨人に取ってもらって、必死にプロのレベルに対応しようとする中で生まれた打法でしょう」と語っている[2]。
守備 [編集]
俊足と高い守備能力を持つ外野手であり[3]、ダイビングキャッチやフェンスにぶつかりながらの捕球を積極的に試みるなど、怪我も恐れぬ積極的なプレーも見せると評価されている[3] 。
1980年代に青い稲妻と呼ばれ、同姓で俊足を武器に活躍した松本匡史(本名は松本哲)を目標とし、試合では青い手袋とリストバンドを着用している[4]。
【2010/11/08 20:09 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
踊り500
2004年 - 2006年 エイベックスお家騒動 歌手業専念期 [編集]
2004年3月20日、総合司会を務めていた番組『ayu ready?』の放送が終了した。この頃からCM等のキャラクターの多くを降板し、歌手業に専念している。爆発的なヒットはないものの、CDの売上枚数は安定していた。7月末、エイベックスお家騒動が起こる(→諸騒動、エイベックス参照)。2006年6月21日に発売された40thシングル「BLUE BIRD」ではソロ歌手および女性ボーカルでは史上初のシングル総売上2,000万枚を達成する(総売上2,000万枚を達成しているのは他にB'z、サザンオールスターズ、Mr.Children、SMAPの4組のみ)。この年のNHK紅白歌合戦では11月29日に発売された8thアルバム『Secret』より「JEWEL」を選曲し、初めてアルバム曲を披露することになった。
2007年 - 2009年 A BEST 2発売 歌手デビュー10周年 [編集]
2007年2月28日、『A BEST 2 -BLACK-』『A BEST 2 WHITE-』が発売された。オリコン・チャート1位および2位を初登場で独占(女性アーティストとしては1970年(昭和45年)の藤圭子の記録以来36年ぶりの記録)また、自身初のアジアツアー(香港、台湾、上海)を敢行し、チケットがわずか三分で完売し、中華圏のマスコミに大きく報道された。7月18日発売の41stシングル「glitter/fated」のDVDには香港の俳優・余文樂(ショーン・ユー)と共演したショートフィルムが収録。また、発売日直前の7月13日、長らく交際していた長瀬智也と破局した事を自身のファンクラブのブログで発表した。12月5日には、初のデジタル・ダウンロード規格のみシングル「Together When...」を発表。2008年4月8日にデビュー10周年記念を迎え、それを記念してシングル・コレクション・アルバム『A COMPLETE 〜ALL SINGLES〜』発売等、10周年記念の活動を行った。12月24日、過労による貧血で高所から落下。右手に全治3週間の重傷になり出演予定だった音楽番組の出演を急遽辞退。その後の自身のカウントダウンライブや初のトップバッターで登場するNHK紅白歌合戦の出演も危ぶまれたが、緊急手術後、医者の条件付出演を行った[1]。2009年3月25日発売の10thアルバム『NEXT LEVEL』では、日本人アーティストとしては初となるUSBメモリ形態を発売した。
2010年 - 現在 50thシングル [編集]
2010年、シングル50枚目の発売に向けて、3作連続シングルリリース及び記念ライヴ『ayumi hamasaki Rock'n'Roll Circus Tour FINAL 〜7days Special〜』が開催された。槇原敬之やデビュー曲「poker face」等の作曲を手がけた星野靖彦や活動再開をしたばかりの小室哲哉を作曲として迎えた。また、8月28日より、日本のアーティストとしては初のデジタル3Dでのライブコンサート映画『A3D ayumi hamasaki ARENA TOUR 2009 A 〜NEXT LEVEL〜』が公開された。
内耳性突発難聴 [編集]

2000年、初のコンサートツアーの第二幕直前に多忙なスケジュールの積み重ね等の理由によって、左耳の疾患(内耳性突発難聴)を患い、一部公演を延期した。医者からは「すぐ治療にとりかかるべきだ」と告げられていたが、ツアーを強行した。後に左耳の聴覚が弱くなる後遺症を負ったことを公表した。その後も定期健診は受けるが、治療のための休養をとらなかった。そのため、2008年1月4日、自身のファンクラブのブログにおいて、以前から抱えていた左耳の疾患(内耳性突発難聴)が悪化し、2007年末頃には医者から「治療の術はない」と、左耳の聴覚が完全に失われ治らなくなったことを告白した。
諸騒動 [編集]

暴言騒動 [編集]
2002年1月末、インターネット掲示板を発端として、ライブ会場で「浜崎あゆみが身障者の少女を罵倒した」という動画付きの噂が流れた。新聞報道にまで拡大し[2][3][4]、公式サイトやファンHPが荒らしに遭った。avexの会長兼社長(当時)の依田巽も声明文を発表。一方、本人の謝罪文でなかったことなどから大炎上に繋がる。しかし、後に言われたとされている少女側のコメントは公表されなかった[5]。雑誌『Free & Easy』とのコラボレーション雑誌『浜崎共和国』において「自分がデマを撒かれたことよりも、そのデマにファンが迷ったり辛い思いをしたのなら、その方がよっぽど辛い」とのコメントを発表している。なお、この事件の影響でこの年の『ayumi hamasaki ARENA TOUR 2002 A』ではスポンサーがつかない事態となり(浜崎のライブでスポンサーがつかなかったのはこの時のみである)、2003年1月に発売された問題の『ayumi hamasaki COUNTDOWN LIVE 2001-2002 A』のDVDはアンコールの大部分が(ラストの「Endless Sorrow "gone with the wind ver."」以外)カットされた。
エイベックスお家騒動 [編集]
2004年7月30日、当時エイベックス専務の松浦勝人は、会長であった依田巽と経営方針が決裂し別会社を設立することを表明した[6]。その直後、浜崎自身もマスコミに対し「彼の存続と共に浜崎あゆみの行方も決めさせて頂きたいと思っております。」と歌手デビューの際に世話になり自身のプロデューサーである松浦に追従し移籍する考えを明らかにした。当時、エイベックスの事実上の代表アーティストであった浜崎の表明が決定的な打撃となり、株は暴落、株主からの抗議が殺到し、また、エイベックス社内は混乱に陥った。8月3日、浜崎の表明を大きく受け、経営陣は方向転換を余儀なくされ、松浦は執行役員として復帰(後に社長就任)し、移籍の懸念等は解消された[7]。このお家騒動を理由にこの年の日本レコード大賞など一連の賞レースを辞退し、以降賞レースからは距離を置くようになる。
渋谷ゲリライベント [編集]
2009年4月7日午後3時ごろ「渋谷109」前のイベントスペースで自身の書籍宣伝を行った[8]。しかし、ゲリラであったにもかかわらず、数千人の見物客が集まり、その一部が車道にはみ出すなどして交通を混乱させた。その後、道路使用許可を取っていないことが発覚し、道路交通法違反の疑いで関係先が家宅捜索を受けた[9]。その後、所属事務所と広告代理店は、略式命令を出された[10]。
【2010/11/07 16:17 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
踊りとあゆ
浜崎 あゆみ(はまさき あゆみ、本名:濱崎 歩(読み同じ)、1978年10月2日 - )は、日本の女性ポップス歌手、元女優、モデルである。 愛称は「あゆ」「ayu」。公式の英語表記は「ayumi hamasaki」。 所属事務所は、エイベックス・マネジメント株式会社。 レコード会社は、エイベックス・トラックス。
目次 [非表示]
1 人物
2 影響
3 来歴
3.1 - 1997年 モデルから女優・アイドルへ
3.2 1998年 - 2000年 歌手デビュー 女子高生のカリスマへ
3.3 2001年 - 2003年 A BEST発売 レコード大賞3連覇
3.4 2004年 - 2006年 エイベックスお家騒動 歌手業専念期
3.5 2007年 - 2009年 A BEST 2発売 歌手デビュー10周年
3.6 2010年 - 現在 50thシングル
4 内耳性突発難聴
5 諸騒動
5.1 暴言騒動
5.2 エイベックスお家騒動
5.3 渋谷ゲリライベント
6 作品
7 受賞記録
8 ライブ(イベント含む)
9 出演
9.1 テレビ
9.2 TVCM
9.3 ラジオ
9.4 映画
10 脚注
11 外部リンク
人物 [編集]

福岡県福岡市生まれ。福岡市立原中学校卒業、堀越高等学校中退。
歌手デビュー後のオリジナル楽曲は全て自身で作詞している。女性歌手でありながら、歌詞の中に『私(わたし、もしくはあたし)』以外に『僕(ぼく)』を多く使い、複数を指す『……達』、『……ら』が多いことが彼女の詞の特徴である。また、自身の暗い心の闇も歌詞に綴り、男女を問わず多くの若者から共感を得る。浜崎自身もCREAとして、作曲を手がけている。
また、名字の「浜崎(濱崎)」の正しい読み方は「はまざき」ではなくて「はまさき」である。犬(小型犬)好きでチワワ、ダックスフントなどを飼っている。仕事場に連れてきており、ライブツアーのMC中にステージに登場したこともあった。『タイム』誌アジア版2002年3月25日号の表紙を飾り、2007年から初の日本国外での公演(台北、香港、上海)を含むライブツアーが本格的に行われ、東アジア地域への進出も果たしている。歌手デビュー前にボイストレーニングのために渡米しているが、デビュー当時は英語は不得意だとコメントしており、ほとんどの歌詞は日本語であった。しかし、2002年以降は英語詞を含めた楽曲も多く発表している。2006年12月にCNNの日本特集『Japan now』期間中に放送された対談番組『Talk Asia』では、短時間ではあったが英語を披露している。
影響 [編集]

1998年、多くの化粧品会社、製菓メーカー等とタイアップし、テレビ・雑誌等のメディアによる「浜崎あゆみ」への注目度が上がった。
2000年頃にはCDの売り上げ枚数がミリオンを達成することが多々あり、また多くのCMや雑誌に出演し、総合司会を務めるテレビ番組を持っていた。マスコミなどでは「女子高生のカリスマ」と呼ばれ、彼女のファッションや奇抜な行動は女子中高生を中心に多大なる影響を及ぼし、ファッションリーダーとしてネイルアート、大きなサングラス、豹柄などの流行を生み出し社会現象となった(後にベストジーニストやネイルクイーンでは殿堂入りも果たしている)。
2001年秋にはアルバムの発売が延期されたとの情報で所属レコード会社エイベックスの株価が下落するなど、エイベックスの看板歌手としての側面も注目されるようになった。また、同社の経営体質の弱点として「あゆ依存」という言葉も生まれた。
来歴 [編集]

- 1997年 モデルから女優・アイドルへ [編集]
小学生の頃にSOSモデルエージェンシー福岡にスカウトされ、当時は「浜崎くるみ」の芸名で福岡中央銀行のポスターや地元商業広告に登場。その後、東京の大手芸能プロダクションサンミュージック(現・サンミュージックプロダクション)を紹介され、所属(都営地下鉄浅草線浅草駅のホームに掲示されているタレント養成所の広告には、加藤晴彦とともにこの頃の写真が掲載されていた)。1993年、テレビドラマ『ツインズ教師』で女優としてデビュー。1994年、芸名を「浜﨑あゆみ」(『崎』の異体字である『﨑』)に改名し、テレビドラマや映画等に出演していた。音楽バラエティ番組で歌を披露することはあったが、アイドル色が強かった。アイドル活動中に松浦勝人と知り合い、1996年末にサンミュージックとの契約が切れた後に本格的に歌手を目指すことになり、ボイストレーニングのためニューヨークへ渡った。当時はあまり音楽的興味も薄かったとロッキンオンジャパンの2万字インタビューで語っている。
1998年 - 2000年 歌手デビュー 女子高生のカリスマへ [編集]
1998年4月8日発売の1stシングル「poker face」で『浜崎あゆみ』としてデビュー。 1999年1月1日発売の1stアルバム『A Song for ××』でオリコンチャート1位を初獲得。約150万枚を売り上げた。4月14日発売の7thシングル「LOVE 〜Destiny〜 / LOVE 〜since1999〜」でシングル初のオリコンチャート1位を獲得。8月11日発売の10thシングル「A」が初のミリオンセラーとなった。12月31日、NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。 2000年4月より初めてのコンサートツアーに挑むも、左耳の疾患(内耳性突発難聴)により一部の公演を延期した。シングルSEASONSで136万枚を超える大ヒットとなり、アルバムも3ミリオンを記録した。11月、全日本有線放送大賞でグランプリを受賞。以降、2001年と2002年のALL JAPANリクエストアワード、2003年のベストヒット歌謡祭でもグランプリを受賞し、4連覇を達成している。12月13日発売の19thシングル「M」では、CREAとして初めて作曲を手掛け、ミリオンを達成した。12月31日に、初のカウントダウンライブを開催する。
2001年 - 2003年 A BEST発売 レコード大賞3連覇 [編集]
2001年3月28日、自身初のベストアルバム『A BEST』を発売。宇多田ヒカルのアルバムとの同日発売で注目を集めた。夏には東京、大阪、名古屋、福岡の4大ドームツアーを行った。9月27日発売の24thシングル「Dearest」で日本レコード大賞受賞(以降2002年、2003年で史上初の3連覇を果たす)。前年に続いて史上初二年連続CD総売り上げ200億円を突破した。また9月にはTOKIOの長瀬智也との交際が明らかになった。 2002年4月24日発売の26thシングル「Free & Easy」は雑誌『Free & Easy』とコラボレーション企画であり、同時に同雑誌の別刊『浜崎共和国』を発売する。7月24日発売の27thシングル「H」が、日本のシングルCDの売り上げが全体的に低迷しはじめた2002年において唯一、オリコン・日本レコード協会のでのシングルミリオンセラーを記録した。9月26日発売の28thシングル「Voyage」に合わせて短編映画『月に沈む』(監督:行定勲)が公開。10月12日、初のレギュラー及び総合司会を務める番組『ayu ready?』がスタートした。 2003年3月12日発売のバラードベスト『A BALLADS』ではファン投票により選曲された。また、5thアルバム『RAINBOW』の初回盤購入者がインターネット上のみで聴くことができたインスト楽曲に、10万人以上のメッセージを読んだ、浜崎あゆみ自身が詞をつけて完成させた「RAINBOW」が収録された。10月、シングル30枚発売記念スペシャルライブ『A museum 〜30th single collection live〜』が行われた。12月12日、『songnation』に参加し、小室哲哉の作曲、自身の作詞のもとglobeのKEIKOとAYUMI HAMASAKI & KEIKO名義でシングル「a song is born」を発売した。12月17日、初のミニアルバム『Memorial address』を発売し、Bonus Track以外の収録曲全てに対しプロモーション・ビデオが作られるなど、この頃からプロモーション・ビデオの製作に力を入れるようになった。
【2010/11/07 16:16 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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